月刊誌リジョイス 聖書日課 2018年1月13日(土)

マルコ2章 安息日の主

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)

 ファリサイ派の人たちは、安息日規定を細部まで正しく守ることが神の民の義務だと考えていました。やがてその中に誤った意識が入り込み、自分は規定を守っていると自負し、守れていないと思われる人を蔑むようになってしまいました。

 本来、安息日とは、自分と自分の周りのすべて命あるものが休息し、命を回復するために神が定められたものです。彼らの姿勢はこの目的とは正反対のものでした。彼らは主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことを咎めますが、主イエスはダビデが供えのパンを食べた例を示されます。

 神が求められることは、神の教えの核心を受けとめ、生きることです。主イエスは、安息日を本当の意味で実現させるために来られた方です。ご自身を神聖な供えのパンとして私たちに差し出され、永遠へとつながる命と安息を与えてくださいました。

 私たちは安息日の主である主イエスのもとで心から安んじ、感謝をしつつ、安息日だけではなく日々の生活を喜んで生きたいと思います。

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