月刊誌リジョイス 聖書日課 2015年12月28日(月)

イザヤ63章 父の背に負われて

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
御前に仕える御使いによって彼らを救い
愛と憐れみをもって彼らを贖い
昔から常に
彼らを負い、彼らを担ってくださった。(イザヤ63:9)

 イザヤ書の終わり近くでも、主の民の苦しみはなお続きます。捕囚は終わりました。けれども長い苦渋と嘆きの後に来るのは、疲労と虚脱、自分はいったい何者かという不安です。

 民は自分が陥った苦境を、自らの罪と不従順に結びつけず、新たな不従順に心を委ねようとします。自分たちの悩みに、主は無関心なのではないか。この厳しい状況の中で、主は、イスラエルの主であることから身を引いておられるのではないか。身勝手な言い分です。しかし私たちも、自分の苦難を「不運」と感じ、神の親切と配慮を疑い、自らの霊的責任を棚上げにすることが多いのです。

 預言者は、神がイスラエルを「子」として選んだ恵みに縋り、神を「父」と呼ぶ信仰に立ち帰ります(8節、16節)。この父と子の絆の中で、主の民はすべてのつぶやきに終止符を打たねばなりません。父は子らの苦難を「御自分の苦難」とされます。苦しみつつ、自らを低くする神です。父の背に負われて歩んだ歴史を、思い起こしてごらんなさい。一年の終わり近い日々、私たちも、主に担われた恵みを心に刻みます。

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