月刊誌リジョイス 聖書日課 2011年4月22日(金)

ヨハネ19章(1) 受難週 わたしは渇く

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。(ヨハネ19:28)

 主イエスは十字架上で息を引き取られる前に「渇く」と言われました。これは、世に来られた救い主として、ご自分の命を注ぎ尽くした果てに出た言葉でした。

 喉が渇くなら、水を飲めば潤せます。心がカサカサにすさんだのなら、慰めの言葉が心を慰めます。しかし主イエスの渇きは、世のいかなるものをもってしても癒やされない、霊魂と肉体の絶望的な枯渇でした。立ち会った人びとは、ぶどう酒を含ませた海綿を差し出して、苦痛を和らげようとしました。

 しかし、主イエスが真に求められたものは、何だったのでしょうか。それは水でも、ぶどう酒でもなく、主イエスに何かをするということでもありませんでした。むしろ、主イエスが注ぎ出された命のぶどう酒を私たちが受けること、つまり、私たちが魂の渇きをもって救い主を見上げ、悔い改めて神に立ち帰ることでした。

 なぜ人は頑なのでしょう。なぜ主イエスがこんなにも渇かねばならないのでしょう。今一度、主の渇きから、私たちがなすべきことを教えて頂きましょう。

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