月刊誌リジョイス 聖書日課 2011年4月4日(月)

イザヤ17章 聖なる方に目を注ぐ

その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。もはや、自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐことなく、アシェラの柱や香炉台を見ようとはしない。(イザヤ17:7-8)

 ダマスコの滅亡と北イスラエル王国の裁きが宣告されます。収穫の際に取り残されたオリーブの実のように、北イスラエルのごく一部の者だけが生き残ります。現実は絶望的ですが、預言者は未来を見通しています。裁きが最終的な答えではないからです。

 「その日」には、イスラエルは遅ればせながら偶像を捨て、自らの過ちを悟って回心し、主のもとに立ち帰ります。もはやアシェラ像ではなく、神殿において「目をイスラエルの聖なる方に注ぐ」のです。「その日には、人は造り主を仰ぎ」とあるので、悔い改めはイスラエルだけに限定されていないようです。偶像礼拝の終着点が滅亡であることを悟った者たちが、自分たちの目を神に向けます。

 これも神の驚くべき力です。万軍の主の憐みがなかったなら、イザヤの嘆きどおり、真の神を知らずに滅びの道を歩んでいたかもしれません。人生の危機が迫るときこそ、目に見える知恵や空しい神々でなく、罪人への主の愛に目を注げることを感謝します。

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