月刊誌リジョイス 聖書日課 2010年8月9日(月)

ゼカリヤ14章 夕べになっても光がある

しかし、ただひとつの日が来る。
その日は、主にのみ知られている。
そのときは昼もなければ、夜もなく
夕べになっても光がある。(ゼカリヤ14:7)

 今日の御言葉は、しばしば人生の晩年における救いの恵みや、信仰者の晩年の祝福として個人的に受け止められることがあります。しかし同時に、ここに描かれているのは、終末に関するもっと壮大な神の御計画です。

 「見よ、主の日が来る」(1節)。このように約束が実現する最後のときにあって、なおエルサレムに壊滅的な打撃を与える試練が来ることを預言者は幻のうちに見ています。これが、預言者ゼカリヤの苦しみです。平和の実現をたやすく宣べ伝えることができません。

 しかし、最後の破局が訪れようとする瞬間に、主がこの戦いに介入してくださいます。主は、エルサレムの東「オリーブ山の上」(4節)に立たれます。こうして、「ただひとつの日」が、到来します。昼もなく夜もなく、従って「夕べになっても光が」あります。時が永遠に呑み込まれ、苦しみと嘆きが終わりを告げます。

 最後の日には、救いが神の都に到来します。「命の水」(8節)が、エルサレムに流れ、救われた人びとの渇きを癒やします。一人一人の命の「夕べ」にも、恵みの光が溢れます。

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