月刊誌リジョイス 聖書日課 2009年6月8日(月)

エゼキエル24章 最愛の人の死を通して

「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。…」
その夕、わたしの妻は死んだ。(エゼキエル24:16-18)

 罪と腐敗のなかにあるエルサレムへの神の裁きは、もはや避けられません。裁きはクライマックスを迎えます。バビロンの軍隊がなだれのようにエルサレムを襲い、今までの預言が総決算されます。時はエルサレムの滅亡まであと3年、ユダ王国最後の王ゼデキヤのときでした。沸き立つ鍋(3〜12節)はエルサレムへの神の裁きのことであり、この鍋にはエルサレムの罪というさびがこびりついていて、取れませんでした。

 預言者として、神の都の滅亡を預言することは辛いことでした。しかしさらに辛いことが、エゼキエルを待っていました。それは彼の妻の死ということです。最愛の妻の死が、エルサレムの滅びの象徴として神によって用いられています。「声を上げずに悲しめ」(17節)と、預言者に求められています。

 預言者を妻の死によって悲しませた神は、ご自分でも痛みを担われます。神の最愛の御子、主イエスは十字架で死なれました。ここに、神の悲しみと私たちへの愛があります。神の痛みを伴った主の十字架のみが、私たちの罪の汚れを清めます。

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