月刊誌リジョイス 聖書日課 2009年2月27日(金)

マタイ20章 神様の気前のよさ

「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(マタイ20:15)

 主イエスのこのたとえは、私たちを困惑させます。神様が、あまりにも気前のよい主人として描かれているからです。ねたましいほどの気前のよさが、戸惑いを与えます。

 このぶどう園の主人は、日の出から夕暮れまで一日中働いた人と、夕方の五時に来て、日が沈むまでのわずか一時間しか働かなかった人に、同じ賃金を払っています。朝早くから夕方まで、丸一日働いた人が抗議するのは当然ではないでしょうか。

 私たちの目には、お人好し過ぎると思われますが、実はそれが神様の真剣な思いなのだと、このたとえ話は教えています。常識外れの気前のよさは、何を物語るのでしょうか。労働者がどれだけ働き、どれだけの利益を出したかよりも、ぶどう園に生きる一人一人の存在が、主人の喜びとなっています。

 「天の国」はこういう世界です。これでは不公平、と誰もが驚いてしまうほど、神様は気前がよい。寛大で気前のよい主人が取り仕切るぶどう園。そこで働く労働者は幸いです。生きる意味と喜びが、このぶどう園でこそ、確かにされるからです。

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