聖書を開こう 2021年3月25日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神の憐み(ヨナ4:6-11)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 他人の悪い点や短所にはすぐに気が付くものですが、自分の事となるとなかなか気が付かなかったり、気が付いてもいろいろと言い訳をして、それを正当化しようとしてしまいます。自分のことを棚に上げて他人を批判したり、他人の長所さえも見ようとしない心の闇が人間にはあります。

 きょうでヨナ書の学びは最後となりますが、ヨナ書はヨナ自身の頑なさを通して、そうした人間の心の闇を描いているように思います。しかも、その頑なさは、他人に注がれる神の憐みや慈しみ深さに対してさえも、心を閉ざしてしまいます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ヨナ書 4章6節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

 前回の学びでは、神の命令に従順に従って、ニネベの滅びを告げ知らせるヨナの姿を学びました。ニネベの滅びの予告を聞いた住民たちは町を挙げて悔い改めの姿勢を表します。その結果、神はニネベへの災いを思い返されました。ストーリーとしては、ここで完結したとしても、十分な目的が果たせそうです。罪に対する悔い改めの重要性や、神の憐みの大きさが十分に描かれています。

 しかし、ヨナ書はそれで終わりません。ヨナの頑な心と態度を描き続けます。ヨナは素直に神の憐みを喜ぶことができません。ヨナの立場に立って考えれば、オリエントを統一する帝国として巨大化しつつあったアッシリアです。その残忍さは、周辺諸国にとって恐怖でさえありました。その首都が滅びをまぬかれるとは、赦しがたい事だったのでしょう。

 後に北イスラエル王国は、アッシリアによって滅ぼされてしまいます。ヨナ書を読む北イスラエル王国の読者にとっては、ヨナの怒りには共感さえ覚えたかもしれません。

 ヨナはなおもニネベの行く末を見届けようと、ニネベの町を出て、東の方に座り込みます。そこまでが、先週取り上げた個所でした。

 そのヨナに対して、神はひそかにとうごまの木を生えさせます。「ヨナの苦痛を救うために」と聖書には書いてあります。炎天下にいるヨナの苦痛を和らげるためということもあるでしょうが、不満で怒り心頭に発して、熱くなっているヨナに冷静さを取り戻させるためでもあったことでしょう。

 その通り、ヨナは木陰を提供するほどに育ったとうごまの木のおかげで、不満も和らぎ、とうごまの木をありがたく思います。もちろん、ヨナにはそれが神の計らいであることには思いも至りません。

 神がとうごまの木を生えさせたほんとうの狙いが、徐々に明らかにされます。せっかく生えたとうごまの木を、一夜にして枯らしてしまいます。たちまちヨナは照りつく陽射しと焼けつく東風にぐったりとしてしまいます。再びヨナは弱音とも怒りとも思える言葉を吐き捨てます。

 「生きているよりも、死ぬ方がましです。」

 このヨナの言葉に対して、神はヨナに問いかけます。

 「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」

 死にたいというヨナのセリフもそうでしたが、それに対する神の問いかけも、どこかで聞いた言葉です。そうです。このやり取りは、4章の3節以下にも出てきました。

 神の問いかけにヨナはきっぱりと答えます。

 「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」

 ここからヨナに対する神のレッスンが始まります。

 「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

 確かに神のおっしゃる通り、ヨナは自分で苦労して育てた訳でもないとうごまの木一本のことで怒ったり惜しんだりしています。そのヨナの気持ちに訴えかけるように、神はニネベの町を惜しみ憐れむご自身を、ヨナに悟らせようとします。

 ここでヨナ書は終わりを迎えます。この神の問いかけに対して、ヨナがどう反応したか、聖書は敢て記しません。それはこの書を読んだ読者自身に対する問いかけでもあります。

 実はこの神の問いかけには深いもうひとつの問いかけが潜んでいます。

 神はニネベには12万以上の分別のない人間と無数の家畜がいるがゆえに、この町を惜しんでいると、そう単純に読んでしまうかもしれません。もしそうであるとするなら、それと比べて、はるかに小さな国にすぎない南ユダ王国や北イスラエル王国はどうなのでしょう。彼らは、小さな国にすぎない自分たちに示された神の憐みや慈しみを本当に理解し、感謝しているのでしょうか。このヨナ書はそのことを問うているように思います。

 ヨナが活躍した時代と同じ、ヤロブアム二世が統治した時代を評して、列王記下の14章24節にこう記されています。

 「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れなかった。しかし、イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はハマトの入り口からアラバの海までイスラエルの領域を回復した。」

 ヤロブアム二世の時代は、ヤロブアム一世の時代と同様に、神の目に悪とされることに満ちていました。それにもかかわらず、国土が回復されるという祝福に与りました。列王記はその理由をこう記しています。

 「主は、イスラエルの苦しみが非常に激しいことを御覧になったから」

 そうです。まったくの主の憐みの故なのです。その憐みを経験しながら、罪深いニネベに注がれる神の憐みに心を閉ざすことは正しいことでしょうか。これはすでに神の赦しの恵みを経験してるクリスチャンに対する問いかけでもあります。

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