聖書を開こう 2021年3月11日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  悔い改めるニネベの住民(ヨナ3:1-10)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会には積極的に自分たちの信じている教えを伝える伝統があります。それを「宣教」と呼んだり「伝道」と呼んだりします。新約聖書の言葉では、「福音を宣べ伝える」「神の国を宣教する」など、いろいろな表現で言い表されます。

 いろいろな仕方で伝道の働きがなされましたが、それは1人でも多くの人に福音に与ってほしいという思いがあります。しかし、その願いとは裏腹に、人々からの拒否反応にしばしば失望することもあります。時には、嫌がらせを受けたり、場合によっては、命の危険さえ感じる迫害に遭うこともあります。

 きょう取り上げる個所でヨナが遣わされていく国は、自分たちにとっては敵対する国です。身の危険を覚悟しなければならないかもしれません。ヨナの正直な気持ちからいえば、ニネベの人々が悔い改めてまことの神を信じることなど、期待もできなかったでしょう。万が一、この敵対する国の人々の罪が無条件に赦されるとすれば、それはそれで、気持ちの持っていきどころがない、という思いも起こるでしょう。

 そんなヨナの複雑な気持ちを頭の片隅に起きながら、きょうの個所を読み進めたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ヨナ書 3章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに3日かかった。ヨナはまず都に入り、1日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

 前回は、海に投げ込まれ、神の計らいで九死に一生を得たヨナの姿を学びました。神の命令に背いて逃亡したヨナでしたが、命の危険にさらされたことを通して、「救いは、主にこそある」という信仰を、身をもって確信しました。

 再び、ヨナは主なる神からの命令を受けます。神からの命令の言葉も前とほとんど同じ言葉です。大いなる都ニネベに行くことが命じられます。神が命じる通りの言葉をニネベの都で語ることが求められています。

 ヨナは、今度は素直にニネベに向かいます。「素直に」とは言いましたが、ヨナの心の奥底まで描かれているわけではありませんから、ヨナがどんな思いで神の命令を聞き入れたのかは、わかりません。ただ、少なくとも、最初の時のように、神の御前から逃れようとはしませんでした。魚の腹の中で誓いを立てて祈ったように、忠節を捨て去ることはせず、誓いを果たそうとします。

 アッシリアの都ニネベは、当時の世界でも大都市として知られていました。4章11節には「12万人以上」とその人口が記されています。その当時としては、まれに見る大都市です。行き巡るのに3日もかかるほど、大きな町です。エルサレムの城壁都市やサマリヤと比べても、その大きさは比較にならないほど巨大です。行き巡るのに3日もかかり、たった1人で12万人以上の人々に神の言葉を伝えるとなると、気が遠くなるような話です。ヨナは徒歩で回るしかなかったようです。拡声器を使ったりビラをまき散らすことなど当然できません。ただひたすら歩いて、大声で呼ばわる他はありません。

 それでも、ヨナは神が命じた言葉を歩きながら伝えます。

 「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる。」

 聖書には、この短いメッセージの言葉しか記されていません。もし、ヨナの語る言葉が、実際にこの短い一言であったとしたら、この言葉の受け取り方は様々であったはずです。何よりも、ヨナ自身がこの言葉をどんな思いを込めて語ったのだろうかと思います。それを覆すことのできない判決を宣言するような気持ちで語ったのでしょうか。それとも、彼らが真摯に悔い改めて、救いを求めてほしいと、そう願ってニネベの町を行き巡ったのでしょうか。ヨナの気持ちはここでは明らかにされてはいませんが、次の章では、ヨナの内面が明らかにされます。ただここでは、ヨナの気持ちをいろいろと想像しながら読むことしかできません。

 ヨナの内面の描写に先立って、ヨナ書の3章には、このメッセージを耳にしたニネベの人々の反応が記されます。彼らは、ヨナの語るメッセージを、覆すことができない決定事項とは受け止めたくはありませんでした。身に迫る危機であると真剣に受け止めたからこそ、その決定を覆し、何とかしてそこから逃れたいと考えました。

 ニネベの住人が思い至った結論は、町を捨てて逃げ延びることではありませんでした。どの人も神の御前に罪を真摯に悔い改める姿勢を、具体的な行動で表しました。断食を行うことも粗布をまとうことも、罪を悲しんで神の赦しを請うまじめな気持ちの表れです。

 住民ばかりではなく、王もまた進んで神の御前にへりくだります。家畜に至るまで断食と粗布をまとうことを命じる徹底ぶりです。それは滑稽に映るかもしれません。しかし、それは神の憐みにすがるほかはない自分たちの姿を、ありのままに認めた証でもあります。そうするよりほかに打つ手はないというぎりぎりの選択です。

 この様子をご覧になった神は、なさろうとしたニネベの滅びを思い直された、と聖書は語ります。言い換えれば、神は、ご自分を知らない人々にさえ憐みの心を向けてくださるということです。実際に彼らの心に働きかけ、回心にさえ導くことができるお方であるということです。

 果して、この結末は、ヨナにとって望ましい結果だったのでしょうか。その答えは4章の冒頭に出てきます。それは来週のお楽しみとさせていただくとして、今はヨナの気持ちを想像してみてください。ヨナにとってニネベは敵対国の首都でした。まことの神を知らない異教徒たちの救いの問題を、ヨナは今まで考えたことがあったでしょうか。おそらく、彼らが真面目に罪を認めるなどということは、想像すらしなかったことでしょう。いえ、想像したくもなかったでしょう。

 しかし、ヨナ書に記された神は、敵対する異教徒の救いを願い、また実際、彼らを救いに導く力を持ったお方としてご自身を示されています。この慈しみ深い神の姿を知ることこそ、ヨナ書が読者に問いかけていることです。そして、異教徒に対してさえも慈しみに富んだこの神を、自分の神とするとき、自分に対する神の慈しみにも目が開かれるようになるのです。そのことこそ、ヨナ書が記された狙いであるように思います。

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