聖書を開こう 2021年3月4日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  魚に飲み込まれたヨナ(ヨナ2:1-11)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 苦しみや悲しみを経験したことがない人は、おそらくいないと思います。ないという人も、おそらくこれからの人生の中で悲しみや苦しみを経験する時が訪れるのかもしれません。それほど、人の人生には苦難がつきものです。

 苦しい経験や悲しい経験は、しなければよいのに、と誰もが素朴にそう思う反面、苦難を通して、考えや生き方が変わり、よりよい人生を歩むことができるというのも確かです。旧約聖書詩編の中にこんな言葉があります。

 「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩編119:71・口語訳)

 ある意味、苦しみに遭わなければ、人は真剣に人生を考えないのかもしれません。

 今日取り上げる個所は、苦しみの中で、初めて真剣に神に向き合うヨナの姿が描かれます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ヨナ書 2章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。
 苦難の中で、わたしが叫ぶと
 主は答えてくださった。
 陰府の底から、助けを求めると
 わたしの声を聞いてくださった。
 あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。
 潮の流れがわたしを巻き込み
 波また波がわたしの上を越えて行く。
 わたしは思った
 あなたの御前から追放されたのだと。
 生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
 大水がわたしを襲って喉に達する。
 深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み
 地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。
 しかし、わが神、主よ
 あなたは命を
 滅びの穴から引き上げてくださった。
 息絶えようとするとき
 わたしは主の御名を唱えた。
 わたしの祈りがあなたに届き
 聖なる神殿に達した。
 偽りの神々に従う者たちが
 忠節を捨て去ろうとも
 わたしは感謝の声をあげ
 いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。
 救いは、主にこそある。
 主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。

 前回取り上げた個所では、船に乗った人々が大嵐に遭い、その原因をつくったヨナを捕らえて海に投げ込んでしまう話を学びました。さすがに現代社会では、天候の異変を誰かのせいだと考えることはしないかも知れません。そういう意味では、非科学的な恐ろしい話と現代人には受け止められてしまうかもしれません。

 もっとも、いくら科学の発達した現代とはいっても、人が極限の恐怖状態に置かれたとき、それが理不尽なことであればあるほど、それを自分のせいや誰かのせいにしてしまう発想が、意外と顔をのぞかせるものです。

 中世の時代、ヨーロッパでペストが大流行したとき、人々はそれをユダヤ人のせいにしました。現代のコロナ禍が世界を襲う時代には、悲しいことに、アジア系の人、とりわけ中国人というだけで、差別や暴力を受けたという事件も実際起こりました。人間とは簡単に冷静な判断を失うものです。

 ただ、ヨナの話では、天候の異変とヨナの行動は決して偶然の出来事ではありませんでした。神の命令に背いたヨナの行動が大嵐をもたらし、そのことが、神から離れようとしたヨナの心を再び神に向かわせる結果となります。

 くじに当たった時にも、冷静を保っていたように思われるヨナの心でしたが、いざ大嵐の海に投げ込まれてしまうと、もがき苦しんで死の恐怖と戦わざるを得ません。

 ヨナ書2章に記されるヨナの祈りの言葉の中には、荒れ狂う海に投げ込まれたヨナが経験した恐怖が描かれています。それはヨナにとって、「陰府の底から」の叫びでした。これは決して大げさな表現ではありません。潮の流れに巻き込まれ、波また波が自分の頭の上を超えていく恐怖です。深淵に飲み込まれて、水草が頭に絡みつく恐ろしい経験をした者の叫びです。

 それにも増して、ヨナにとって一番恐ろしいと感じたのは、生きて再び神殿を見ることができないという絶望感でした。それは、海におぼれたからではなく、神から追放されてしまったという思いから出てくるものです。

 そもそも、自分が神の命令に背いて、ニネベとは正反対の方向に逃げ出してしまったことが、すべての起こりの始まりですが、行動を起したときのヨナには、こんな悲惨な結果が待ち受けているとは、思いもしなかったのでしょう。いえ、思ったとしても、きっと軽く考えていたのでしょう。

 ヨナは苦しみの中で再び真剣に神に心を向けます。

 神のご計画は、命令に背くヨナを滅ぼしてしまうことにあったのではありませんでした。大きな魚を用意して、ヨナを飲み込ませ、命を救います。なんだかピノキオの話に出てくる場面を思い出させるような話の展開です。もっともピノキオの話の方がずっと時代が後ですから、もしかしたらヨナ書をヒントにあの場面は書かれたのかもしれません。

 ちなみに、クジラに飲み込まれて助かった人の話は、現代でも報告がありますから、ヨナの話をおとぎ話や全くの創作としてしまうことはできません。もっともわたしが知ったニュース記事では、三日三晩もクジラのおなかの中にいたという訳ではありませんでした。飲み込まれてすぐに吐き出されたので、ヨナのケースとは違います。

 いずれにしても、自分の軽率な行動で、神にも見捨てられたと思ったその時に、神は大きな魚を用意して、ヨナの命をお助けになったということです。まさに息絶えようとしたそのとき、ヨナが呼び求めた主の御名に答えて、神はヨナの祈りに耳を傾けてくださいます。

 ヨナ書2章に記されるヨナの祈りの言葉は、感謝の言葉で結ばれています。

 「わたしは感謝の声をあげ いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。 救いは、主にこそある。」

 「救いは、主にこそある」という言葉こそ、ヨナの感謝の思いと深く結びついた実感です。もとはといえば、神の命令に背いたヨナでしたから、自分の身に何が起こったとしても当然です。しかし、そんなヨナをも助けてくださる神に、ヨナは感謝の思いに満たされます。

 確かに、「救いは主にある」という信仰は、ヨナが物心ついた時から教えてこられたことだったでしょう。しかし、その同じ信仰を今告白しているヨナは、以前とは違う思いでこの言葉を口にしているはずです。生死に関わる経験を経て、心の奥底からこの信仰を自分のものとした、ということです。

 こうして三日三晩、大きな魚の腹の中で過ごしたヨナを、神は陸地に吐き出させます。このあと、心機一転、再びニネベに遣わされるヨナの姿が描かれます。「救いは、主にこそある」と再認識させられたヨナのこの信仰は、果たして、他の民族にも及ぶほどスケールの大きな信仰だったのでしょうか。ヨナはその点について再び神からのチャレンジを受けます。次週に続く展開をどうぞお楽しみに。

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