聖書を開こう 2021年2月11日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神に背くヨナ(ヨナ1:1-6)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今日から新しい箇所に入ります。今回取り上げる聖書の個所は旧約聖書の『ヨナ書』と呼ばれる個所です。『ヨナ書』は旧約聖書の中の預言書に分類される書物で、その預言書の中でも、小さな預言書と呼ばれる十二の書物の一つに分類されています。

 預言書に分類されてはいますが、他の預言書のような、神から受けた「託宣」が書物の中心的な内容ではありません。むしろ、神から委ねられた言葉はほとんど記されず、『ヨナ書』全体が、預言者ヨナの物語です。その物語も簡潔な文章で構成されていて、書物全体を読んだ時に、初めてこの書物が何を語ろうとしているのかが、理解できる構成になっています。初めてこの書物を読む読者にとっては、最後の最後まで、この書物の真の意味が分かりません。一体次に何が起こるのだろうかと、読者はドキドキ、ハラハラしながら読み進めるうちに、この書物の書かれた真の目的へと導かれていきます。

 ところで、『ヨナ書』に登場するアミタイの子預言者ヨナの名前は、この書物の他に、『列王記下』の14章25節にほんの一度だけ登場します。しかし、『ヨナ書』に記された出来事に関係するようなエピソードは何も記されてはいません。

 そこで、『ヨナ書』自体が、預言者ヨナの名前を借りた、一つのたとえ話であると考える聖書学者たちもいます。『ヨナ書』が史実に基づいた話であるのか、はたまたそれ自体がたとえ話であるのかは、ここでは議論しないことにします。この書物のメッセージはそれらの議論と関わりなく明白だからです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ヨナ書 1章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」

 『ヨナ書』の始まりは、預言者ヨナに臨んだ神の言葉から始まります。

 「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」

 ニネベというのは、アッシリア帝国の首都で、後にアッシリアは北イスラエル王国を滅亡へと追い込むほどの強敵でした。エルサレムやサマリアの町と比べても、ニネベが大都市であることは、この預言書の3章にも出てくる通り、一回りするのに3日かかるほどの大きさでした(ヨナ3:3)。ヨナ書の4章には町の住民は12万人以上と記されていますから(ヨナ4:11)、その大きさがイスラエルの人々にとってどれほど巨大な都市として認識されていたかが伺われます。ちなみに紀元前8世紀頃の世界において、人口10万を超える都市は数えるくらいしかありませんでした。

 神がこの町に呼びかけるように、ヨナに命じた理由は、彼らの悪が神の前に届いているからでした。神の目に届かない悪は何一つないのは当然ですが、ニネベの人々の悪は、もはや隠しようがないほどに神の知るところとなったということでしょう。したがって、ヨナが遣わされたのは、この町の罪を告発し、神の裁きを予告するためであったことは明らかです。もちろん、神がそのように罪を告発し、裁きを予告するのは、人々が悔い改めて、罪から離れるためです。

 この神の命令に対して、ヨナは神の御前から逃れて、真逆の方向のタルシシュへと向かいます。今流に言えば、パレスチナからイラクには行かず、スペインに向かって旅立ったということです。

 では、なぜヨナは主の命令に背いて、まるで違う方角へ向かって旅立ったのでしょう。その理由はここには記されていません。後に4章2節で、ヨナ自身の言葉でその理由が語られています。しかし、今はあえてそこには触れないでおくことにします。むしろ、読者がその理由をいろいろと詮索しながら読み進める方が、『ヨナ書』を味わうためには役に立つかもしれません。

 今まで見てきた範囲では、少なくとも二つぐらいの行きたくない理由は想像することができます。一つは、ニネベの町はヨナにとっては大都市です。ニネベの住民にとっては無名のヨナが行ったとしても、誰も耳を傾けないことは十分予想できます。12万人もの人に、足で回って耳に届けるには、あまりにもヨナは無力すぎます。

 第二に、そもそも遣わされる相手は、自分たちにとって好ましくない相手です。敵のためにわざわざその罪を告発し、悔い改めに導くことなど、ヨナにとっては不本意なことだったことでしょう。敵の救いなど、ヨナの頭にはなかったのかもしれません。

 しかし、神の前から逃げ出す理由がどんなに同情できる理由であったとしても、この書物を読む読者にとっては、ヨナの行動が神の御前に正しくないことは明らかです。そうであるにもかかわらず、事態は不思議とヨナにとって有利な展開となります。

 「渡りに舟」とはこのことをいうのでしょうか、港町のヤッファに着くと、「折よく」タルシシュ行きの船が見つかります。こっそり船に乗り込まなくても良いように、船賃を支払うだけの用意もありました。誰が見てもちゃんとした船客です。そういう意味で、すっかり他の乗客たちに溶け込んでいます。決して怪しい人とは思われる理由がありません。皮肉なことですが、神に逆らったヨナのために万事がうまく整えられて、タルシシュ行きの船に乗り込みました。しかし、万事が順風であったとしても、それが神の御心に合致していることの証拠にはなりません。

 ヨナにとって万事が整えられたのはそこまででした。船が港を離れると、海は大荒れとなります。しかも船が砕けんばかりの大荒れで、海を熟知しているはずの船乗りたちも恐怖を感じて震えるほどです。人々は神に祈るしかなく、それぞれ自分の信じる神々に向かって祈りを捧げ、船が沈まないようにと大切な荷物さえも海に投げ捨てます。信じるものは違っていても、ある意味、それぞれが自分の信仰を表明し、絞れるだけの知恵を絞って危険から逃れようとしました。

 そうした人々の姿とは対照的に、ヨナは船底に降りていき、横になって寝てしまいます。ここを読むたびに、ヨナの心の中がどんなものであるか知りたい気持ちになります。これは現実逃避のふて寝でしょうか。それとも、こんな状況の中でも平安を保っている信仰でしょうか。いずれにしても、船長の目には、おかしな乗客とうつったにしがいありません。船長はヨナのもとに来て、「さあ、起きてあなたの神を呼べ」とヨナに命じます。

 神から逃れたかったヨナにとっては、最も聞きたくない言葉だったかもしれません。ヨナの思いとは裏腹に、神は異邦人の船長を使ってでも、ヨナにご自分に思いを向けるようにと迫ります。なすべきことを知りながら、それでも神に逆らう人間に、神は思いもかけない方法で語りかけてくださいます。ここに登場するヨナは、わたしたち自身の姿であるようにも思えます。

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