聖書を開こう 2021年2月4日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  いまだ見ぬ世界への祝福の広がり(ルツ4:16-22)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしが好きなテレビ番組の一つに、NHKの「ファミリーヒストリー」という番組があります。著名人の家族の歴史を、本人に変わって取材し、祖父母や先祖たちがどう生きたかをVTRで紹介する番組です。

 よくまぁ先祖を知る関係者たちを探してくるものだと、毎回感心しながら見ています。というよりも、取材しているうちにどうしても番組として成り立たない人もいるのではないかと、ついつい制作者の側の苦労を想像しながら見ています。そしてまた、番組では取り上げられない多くの普通の家族にも、きっと感動的な歴史があるはずなのに、と思ったりもしています。

 『ルツ記』は、ある意味、ダビデ王のファミリーヒストリーということができるかもしれません。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ルツ記 4章16節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。ペレツの系図は次のとおりである。ペレツにはヘツロンが生まれた。ヘツロンにはラムが生まれ、ラムにはアミナダブが生まれた。アミナダブにはナフションが生まれ、ナフションにはサルマが生まれた。サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。

 前回の学びでは、ルツとボアズの結婚と二人の間に男の子が生まれた話を取り上げました。ルツとボアズの出会いから二人の結婚に至るまでのストーリーにはかなりの分量のスペースを割いて記してきたのと比べて、結婚から出産までの間の期間は、ほんの数行で記されていました。おそらく、出会いから結婚に至るまでの期間よりも、結婚から出産までの期間の方がはるかに長かったはずですが、二人の新婚生活のことにはまったくと言って良いほど触れられていません。

 その代わりといってはなんですが、前回の学びでも指摘した通り、この男の子の誕生について、『ルツ記』は「主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」とわざわざ記しています。『ルツ記』はナオミやルツやボアズの話ですが、その背後にはいつも主である神が伴っていてくださったことを思い起こさせる言葉です。

 振り返ってみると、ナオミが移住先のモアブから故郷のベツレヘムに戻る決断をしたのは、「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった」ということを耳にしたからでした(ルツ1:6)。異教の地で愛する夫と二人の息子たちを失い、悲嘆に暮れるしかないナオミにとって、主の顧みこそが、一縷の望みでした。このナオミの望みに、主がどのように応えてくださったか、そのことこそ、『ルツ記』に一貫して流れるテーマの一つであるとも言えます。

 今日の個所は、主によって与えられた孫を、ナオミが懐に抱き上げるシーンで始まります。結婚した息子たちが相次いで亡くなったとき、ナオミには孫の顔を見るなどという望みはきっとなかったことでしょう。しかし、思いもかけず、孫を抱く機会に恵まれ、きっとその顔にも笑顔があふれたことでしょう。

 面白いことに、男の子を産んだのはルツであるにもかかわらず、ここからのシーンでは、ルツはすっかり姿を消して、ナオミにスポットライトが当たっています。生まれてきた男の子を養い育てたのは、ルツでもボアズでもなく、ナオミがこの男の子を養い育てた、と『ルツ記』は記しています。

 近所の婦人たちも「ナオミに子供が生まれた」と不思議な言い方をしています。ナオミが生まれてきた男の子をまるで自分の子供のように愛してやまなかった様子が目に浮かぶようです。そして、そのようにナオミの喜びに仕える赤ちゃんを、近所の人たちはいつしか「オベド」と呼ぶようになりました。オベドとは「仕える者」「しもべ」という意味が込められた名前です。子供に名前を付けるのは親の仕事の一つですが、近所の婦人たちが呼んだ名前が、そのままこの子どもの名前になりました。

 今を生きるわたしたちの感覚からすれば、「仕える者」とか「しもべ」という名前は、子供の名前にはふさわしくないように感じるかもしれません。しかし、旧約聖書の中では「しもべ」という言葉は必ずしも悪いイメージの言葉ではありませんでした。特に「主のしもべ」という呼び名は、名誉な響きさえありました。

 この子のはるか先に生まれた子孫、イエス・キリストは、ご自分を指して「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)とおっしゃいました。オベド(仕える者)の子孫から、まことに仕えるお方が誕生したことは、決して偶然ではないように感じられます。

 『ルツ記』はオベドの名前を紹介した後、そこから生まれる子孫の名前を列挙します。

 「オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である」(ルツ4:17)。

 『ルツ記』が記されたのは、まさにダビデ王のファミリーヒストリーを記すためであったということがわかります。『ルツ記』は続けてダビデ王に至るまでのペレツ家の系図全体を記します。ペレツからボアズに至るまでの系図は、ボアズやルツにとっては、過去の先祖たちです。しかし、エッサイやダビデに至っては未来の人たちです。ひょっとしたらエッサイの顔ぐらいは見ることができたかもしれません。けれども、ダビデ王のことなど、知る由もなかったことでしょう。まして、そこから何百年も後に、イエス・キリストが誕生することなど、想像もつかなかったはずです。

 ダビデ王にとっても、イエス・キリストにとっても、その先祖に異邦人の女性、ルツがいたことは、注目すべき事柄です。前にもお話ししたと思いますが、旧約聖書『申命記』の中には、「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」(申命記23:4)と記されています。それにもかかわらず、ルツはイスラエルの中に完全に受け入れられています。イエス・キリストの系図を記したマタイ福音書の冒頭部分にも、ルツの名前がしっかりと記されています(マタイ1:5)。

 ルツがまことの信仰を持たないモアブの女性であったとしたら、決してこのような特別な扱いはされなかったことでしょう。『ルツ記』は信仰が血筋に勝利したストーリーということができます。血筋としてのイスラエルではなく、信仰を受け継ぐ共同体としてのイスラエルこそまことのイスラエルであることを暗示しています。このことは、信仰によって救いが与えられることを強調する新約聖書の教えの先駆けともいうことができます。

 ところで、なぜペレツの系図なのか、という疑問が残るかもしれません。それはペレツの出生のエピソードに深く関わっています。ペレツはユダがタマルによって設けた子どもです。そのエピソードは『創世記』38章に詳しく記されていますが、決してほめられた話ではありません。むしろ、隠しておきたいような歴史です。出発は罪深い始まりであったとしても、しかし、ペレツ家の歴史は神の恵みの勝利を証しする歴史でもありました。神の恵みの勝利こそ、ペレツ家の歴史であり、それは、神の救いの歴史全体でもあるのです。

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