聖書を開こう 2021年1月28日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  恵みの回復(ルツ4:13-15)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「人生楽ありゃ苦もあるさ」と歌うのは、有名なテレビドラマ『水戸黄門』の主題歌です。これは「苦あれば楽あり」ということわざにもある通り、一般的な真理ということができると思います。人の人生の中には、苦しいこともあれば、楽しいこともあります。それは、苦労が続くことばかりではない、という希望にもつながりますが、反対に、人生は楽しいことばかりではない、という警告にも聞こえます。人生に苦楽が伴うことは信仰を持っている人にとっても例外ではありません。

 信じていれば、病気にならないと期待したり、信仰があれば必ず希望通りの人生になるということはありません。そういうことを期待して信仰心を持つとすれば、いつかは期待を裏切られます。その結果、「だから神などいない」と短絡的に結論付けてしまったり、「自分には信仰が足りなかったのだ」と悲観的になってしまいます。

 もっとも、信仰が人生の見かたを変えるということは大いにあります。信仰によって困難な状況の中にあっても希望を持ち続ける忍耐が与えられたり、つまらないと思える生活の中に小さな幸せを見つけたりする目が養われます。

 『ルツ記』に記されたことは、単に人生には苦楽が伴うという一般的な真理でもなければ、ただのハッピーエンドのお話でもありません。翻弄された人生を、信仰を貫いて生きた女性たちの話であり、神が見えない御手をもって彼女たちを支え続けてきた話です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ルツ記 4章13節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、7人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」

 前回までの話は、ボアズが親族としての責任を、多くの証人たちの前で果たしたということでした。そこには、ボアズの思慮深い行動と、また、その行動を貫かせるボアズの価値観がありました。親族としての責任とは、具体的には、ヘブライ語の原語が示す通り、贖う責任のことです。その一つは、畑の買い戻しということがありました。

 ボアズよりも優先権のある別の親族は、畑の買戻しには興味を示しました。しかし、もう一つのことがあって、それを断念せざるを得ませんでした。それは、子供なくして夫に先立たれたルツを妻として迎えるという責任でした。ルツがモアブ出身でなければ、この別の親族はルツを妻として迎え入れたかもしれません。いずれにしても、ボアズの望む通りにことは進み、ボアズはルツを妻として迎え入れることになりました。

 きょうの個所は、「ボアズはこうしてルツをめとった」という言葉で始まります。畑の買戻しもボアズにとっては大きなことでしたが、それ以上にルツを妻として迎え入れることは、大きな責任を伴うことでした。

 振り返ってみれば、ルツがボアズに出会ったのは、偶然のような出来事でした。ルツは意図してボアズの畑で落穂ひろいをしたわけではありません。ボアズもそれを予想することもありませんでした。ある日、自分の畑に行ってみると、見慣れない女性が小屋で一息入れているのが最初の出会いでした。この女性が自分の人生にどんな影響を与えるかなど、想像もしていなかったことでしょう。

 結婚の話を持ち出したのは、ナオミの知恵もありましたが、ルツもまんざらではありませんでした。ナオミの言葉に従順に耳を傾け、夜、打ち場で眠るボアズのもとに忍び込みます。「お前は誰だ」と問いかけるボアズに対して、ルツが答えたあの言葉が、ボアズを積極的な行動に促すきっかけでした。

 「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」

 これは単に贖う責任をボアズに求める言葉ではなく、同時に求婚の言葉でもありました。ルツのその言葉に応えて、ボアズは思慮深い行動によってルツをめとりました。それは、ルツの願い通り、親鳥が翼を広げて雛を守るように、ルツを守る責任を引き受けることでもありました。

 「ボアズはこうしてルツをめとった」という言葉に続けて、「ルツはボアズの妻となった」と記されます。新共同訳聖書はこの二つの文を、「ので」という言葉で結んでいます。

 「ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となった」。

 確かにボアズがルツを妻として迎え入れる決断をしなければ、ルツはボアズの妻となることはできないのですから、「ので」という言葉で二つの文を結び合わせるのは当然かもしれません。しかし、あえて「ので」という言葉で結び合わせる必要もないように思われます。ボアズはボアズでルツを妻として迎え入れる意思を表し、ルツはルツで、ボアズの妻となる意思を表した、つまり、どちらがどちらかの行為に依存しているのではなく、両者の思いが一つとなって夫婦となったと読めるように思います。

 きょう取り上げた個所は、2人の結婚で終わりません。ルツが男の子を出産する話へと展開します。ルツにしてみれば、死に分かれた最初の夫との間には子供がいませんでした。このことはルツのこれまでの人生の中でずっと引きずってきた、大きな苦しみであったことでしょう。そうした苦しみの中で、ナオミから受け継いだ信仰が芽生えて、ナオミとともに主に従って歩む決意を生み出したのかもしれません。

 ルツが男の子を産むくだりを記す『ルツ記』は、「主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」と記しています。聖書には子供が生まれる話はたくさん出てきます。しかし、「主が身ごもらせたので」とわざわざ記している個所は多くありません。神が関わらない誕生は誰一人としてないことはわかりきったことです。しかし、それをあえて記していることには、特別な意味があるからでしょう。ルツにとってもボアズにとっても、そしてしゅうとめのナオミにとっても、生まれてきた男の子は、単に結婚生活が生み出した子供ではありません。そこに特別な主の計らいを見出し、人々もそのように受け止めたからこそ、「主が身ごもらせたので」とわざわざ表現されたのでしょう。少なくとも『ルツ記』が書かれた時代の人たちにとっては、その子孫からダビデ王が生まれたことは周知の事実です。『ルツ記』の作者も読者もこのひとりの男の子の誕生に、ダビデ王の誕生に結びつく主の特別な摂理を見出していたに違いありません。

 続いて、ナオミに語りかけるベツレヘムの女たちの言葉が記されます。

 「主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。」

 「家を絶やさぬ責任のある人」という言葉は、「贖う人」「贖い主」という言葉です。『ルツ記』の話の流れからいえば、それは、ボアズのことを指しているように受け取れます。しかし、男の子が誕生したときに町の人々が「今日お与えくださいました」と言っているのですから、生まれてきた男の子を指しているようにも受け取れます。

 イエス・キリストがお生まれになったとき、天のみ使いは「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2:11)と告げました。贖い主を絶やさない神は、後に究極の贖い主イエス・キリストをダビデの町ベツレヘムに「今日」誕生させてくださいました。

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