聖書を開こう 2020年9月10日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神に愛された者として(エフェソ5:1-2)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「学ぶ」という言葉は、「真似ぶ」つまり「真似る」ことと関係していると言われています。「真似をする」というとあまり良いイメージではありません。しかし、人の真似をして学習し、積み重ねてきたものがあるからこそ、安全に生きることができるという面もあります。

 たとえば、キノコ狩りをする時に、食べられるキノコと毒キノコを見分けるために、いちいち自分で食べて確かめる人はいません。先人の知恵をまねて、学習を積み重ねて、食べることができるキノコの種類を学んでいきます。

 「学ぶ」と似た言葉に「習う」という言葉があります。学習の「習」と書いて「習う」です。この「ならう」という言葉には、もう一つの漢字が当てられます。模倣の「倣」と書いて「倣う」です。さらにもう一つの漢字を当てはめることもあります。習慣の「慣」、「慣れる」という字を使って「慣らう」です。「ならう」ということは、結局は、繰り返すことで「慣れる」こと、慣れて身につくほどに模倣することです。学習するとは、そうやって身につけていくことです。

 こうして考えると、「学ぶ」も「習う」も、何かを真似することと深く関係しているというところに興味を覚えます。

 では、エフェソの信徒への手紙が取り上げる「新しい人」としての生き方は、何を真似ることでしょうか。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章1節と2節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

 きょうからエフェソの信徒への手紙の5章に入ります。聖書に振られた「章」や「節」は、あとから便宜上つけられたもので、手紙を書いた筆者が、ここから新しい章が始まると考えているわけではありません。

 4章からの大きな流れで言えば、新しい人を身に着けて、どう生きるのか、ということと、きょうの個所は深くつながっています。また直前の節である4章32節とも密接なつながりがあります。というのは、4章32節は「神が〜したように、あなた方も〜しなさい」という構文です。言い換えれば、こういう点で、神に倣って生きなさい、という勧めです。

 きょう取り上げた5章の1節は、今まで述べてきた「新しい人の生き方」を一言で言い表しているとも言えます。

 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」

 4章で「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」ということをパウロが述べる背景には、1章から3章までにパウロが述べてきた「神の救いの秘められた計画」がありました。そして、パウロがこの「神の秘められた計画」のことを語るときには、「神の愛」がその背景にあることを指摘していました。

 わたしたちを天地創造の前からキリストにあって選んでくださったのは、ただ神の愛によるものでした(エフェソ1:4)。罪のために死んでいたわたしたちをキリスト共に生かしてくださったのも、また神の愛によるものでした(エフェソ2:4-5)。

 そして、4章に入る直前でパウロが祈ったことは、愛に根ざし、愛にしっかりと立つものとされることであり(エフェソ3:17)、人知を超えた愛を知るようになることでした。

 こうした流れから考えると、新しい人の生き方が、神の愛に倣うものとなることに集約されてくることは、ごく自然であることがわかります。神に愛されている子供なのですから、神の愛を学び、神の愛に倣うことこそ、新しい人の生き方の本質なのです。

 ただ、パウロの書いた手紙全体を見渡すと、「神に倣う」という言い方は、ここにしか出てきません。コロサイ3章10節に「造り主に倣う新し人」という表現が似た表現として登場するぐらいです。

 それ以外に、パウロが「倣う」という言葉を使うときには、「キリストに倣う」という言い方か(ローマ15:5, 1コリント11:1, 1テサロニケ1:6)、あるいは「わたしに倣う」という言い方です(1コリント4:16, フィリピ3:17、1テサロニケ1:6)。もちろん、この場合の「わたしに倣う」という意味は「キリストに倣う者であるわたし」が前提となっています(1コリント11:1)。

 こうしてみると、「神に倣う」という言い方は、特殊かもしれません。それに、人間が神の真似をすることなど、あまりにも不可能なように感じるかもしれません。

 ただ、「神に倣う者になりなさい」というこの言葉が出て来る背景には、わたしたちを「神に愛された子供」としてくださった神の特別な恵みがあります。神の子イエス・キリストを通して、神の子となる特権をいただいたわたしたちです。その子供が親に似るのは、ある意味当然のことです。この勧めの言葉は、神の子とされた人たちへの期待でもあります。

 続く2節には、一見新しい勧めの言葉が記されているように読めるかもしれません。

 「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」

 しかし、1節に記されている、あなたがたを愛した「神の愛」は、イエス・キリストの十字架の犠牲の中にもっともよく現れています。父である神に倣うということは、結局はイエス・キリストの中に神の愛を見出し、キリストに倣う者になることにほかなりません。

 イエス・キリストご自身、最後の晩餐の席上で弟子たちにこうおっしゃいました。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

 キリストを通して示された「愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」(エフェソ3:18)、「神の満ち溢れる豊かさにあずかり、それによって満ち溢れるように」(エフェソ3:19)なることこそ、神に似た者となる道なのです。

 新しい人を着る新しい歩みは、結局のところ、「キリストを着る」と言い換えても言い過ぎではありません。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、神の子とされた人たちのことを、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」と述べているとおりです(ガラテヤ3:27)

 キリストを着て、キリストの愛のうちに歩むこと、そのようにして神に倣う者となること、そのことが大切なのです。

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