聖書を開こう 2020年4月23日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  世に打ち勝つ信仰(1ヨハネ5:1-5)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今学んでいるヨハネの手紙には「愛」という言葉がたくさん出てくるということを、前回指摘しました。それに対して、「信仰」とか「信じる」という言葉はこの手紙にはほとんど出てきません。もちろん、この手紙の著者が「信じる」ということに関して、無関心であるとか、「信仰」に対して、低い価値しか置いていないということではありません。

 当然のことですが、「信仰」はこの手紙の前提であることは言うまでもありません。神への信仰がないのに、神の愛について論じることも、神の愛に生きることを考えることも意味がないからです。

 きょう、これから取り上げようとしている箇所は、ヨハネが「信仰」について語っている数少ない箇所の一つです。しかし、ここに書かれている事柄は、決して小さな意味しかない持たない事柄ではありません。むしろ、信仰がもつ大きな意味を語っています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 5章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

 まず、ヨハネは「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者である」と述べます。今でこそ、「イエスがメシアである」と信じることが、キリスト教信仰の中心であることは誰もが知っています。少なくとも、「イエス・キリスト」という言葉を聞いて、何の違和感も持たない人の方が多いでしょう。しかし、この手紙が書かれた当時は、「イエスがキリストである」つまり、ナザレのイエスのことを「イエス・キリスト」と呼ぶのは、クリスチャンだけでした。そして、ヨハネによれば、イエスこそがキリストであると信じて、そう呼びかけることができるのは、その人が神から生まれた者だからです。

 ところで、「神から生まれる」という表現が、この手紙の中に出てくるのは、これが初めてではありません。4章7節では「愛する者は皆、神から生まれた」と言われています。つまり、ヨハネは、愛を行う者も、イエスをキリストと信じる者も、共に神から生まれた者であることを述べています。

 今まで、ヨハネはたくさんのスペースを割いて、愛について書いてきましたが、その愛は、神から生まれた者が持つ特徴であるということでした。同じ神から生まれた者は、また、イエスをキリストであると信じる者です。ヨハネの手紙の中でも、信仰と愛とはクリスチャンの特徴として切り離すことができないものなのです。

 ヨハネにとって、自分を生んでくださった神への愛は、同じ神から生まれた者たちに対しても、当然のように向けられるものです。それは、同じ両親から生まれた血のつながりのある兄弟姉妹に対して抱く愛がごく自然であるように、神から生まれた者たちが相互に抱き合う愛も、ヨハネにとっては何の説明を必要としないほど自然なものと理解されています。教会は、同じ神から生まれた者たちによって成り立つ共同体です。それは、イエス・キリストを救い主と信じ、同じ神から生まれた兄弟姉妹たちを愛し合う共同体なのです。

 しかし、またヨハネは、「神を愛するとは、神の掟を守ること」だと述べています(5:3)。「愛」と「掟」という言葉は、一見、相いれないように感じるかもしれません。というのは、「親子の愛」や「兄弟同士の愛」というのは、掟というよりは、自然な感情のように受け止められるからです。

 けれども、聖書の中では、「愛」はしばしば、「掟」として登場してきます。有名な申命記6章5節の言葉は、主である神を心から愛するように命じる掟として伝えられます。イエス・キリストご自身もまた、最後の晩餐の席上で弟子たちに、「新しい掟を与える」とおっしゃって、ご自分が弟子たちを愛したように、互いに愛し合うことをお命じになりました。

 「愛」は神から生まれた者たちが持つ特徴であると同時に、神から生まれた者たちの集まる共同体の掟でもあるということです。

 この手紙の中で「掟」という言葉が出てくるのは、ここが初めてではありません。3章23節にはこう記されています。

 「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」

 ここでも、「信仰」と「愛」が結びあわされて登場しています。神の掟は、神の子イエス・キリストを信じるということだけではありません。そう信じて、互いに愛し合うことです。聖書の中では、いつも信仰と愛とは車の両輪のように描かれてます。

 ガラテヤの信徒への手紙5章6節には「愛の実践を伴う信仰」という表現が出てきますが、愛を生み出さない信仰というのは、パウロにとって考えられないことです。行いではなく、信仰によって救われることを強調するパウロにとってさえ、愛を伴わない信仰はありえないということです。

 この掟を守ることが、神への愛であるとヨハネは述べています。

 「掟を守る」という表現は、2章3節にもありますが、そこでは、「神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かる」と言われています。神を知ることと神を愛することは、結局のところ同じことです。知らないものを愛することはできませんし、愛すれば愛するほど、愛の対象を深く知ることができるからです。

 ヨハネにとって、「神を知り、神を愛する」とは、私たちの救いのために遣わされてきた御子イエス・キリストを信じ、このイエス・キリストが私たちを愛してくださったように互いに愛し合うことによって、一層深められていくということです。

 ヨハネはこの掟は難しいものではないと断言します。ここで念頭に置いている難しさとは、この世との対立から生じる難しさです。この世はイエス・キリストを信じることに対しても、キリストの愛に生きることに対しても価値を置きません。そのようなこの世の中で生きるクリスチャンにとって、神の掟に従って歩むことは、難しいと考えられがちです。けれども、ヨハネはそれをきっぱりと否定します。

 なぜなら、信仰が勝利をもたらすからです。イエスこそキリスト、救い主であると信じる信仰は、神から生まれたすべての者に与えられています。私たちの中には力がありません。キリストの力が信仰を通して働いてくださいます。

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