聖書を開こう 2020年3月19日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神の内にある安心と確信(1ヨハネ3:19-24)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしは本当に救われているのだろうか、という質問をときどき受けることがあります。そう感じるのは、クリスチャンとしての自分の生き方に、研ぎ澄まされた感性で向き合っている証拠とも言えます。聖書が求める完全さに程遠い自分を見て、失望を感じのは、ある意味当然かもしれません。

 しかし、完全でなければ、救われていないとするのは、聖書を読み違えているように思えます。確かに、信じた瞬間にすべてが変えられて完全になることを聖書が約束しているのであれば、完全でない自分を見出したとき、自分は救われていないと失望するのも無理はありません。

 確かに聖書の神はご自身が完全であられるように、神を信じる者にも完全であることを求めてはいますが、信じた瞬間にそうなることを約束しているわけではありません。むしろ、信じて救いの道に入れられた瞬間から、完成へと向かって歩みがはじまり、たとえその歩みが遅く見えたとしても、完全に後戻りしてしまうような歩みではない、と言った方が聖書が教えている救いの完成を適格に表現していると思います。

 コロサイの信徒への手紙の3章10節に不思議な表現があります。直訳すれば、「日々新しくされつつある新しい人を着た」という表現です。これは救われた者の姿を的確に表現しています。「新しい人を着た」という点では、確実な変化を表現しています。けれども、その「新しい人」というのは、日々新たにされていく途上の人です。つまり、完成された新しい人なのではなく、新しくされつつある途上にある新しい人なのです。

 そのことを正しく理解していれば、救われているのだろうかと感じる不安も理解することができ、また、同時にその不安は確信へと変わりうる不安でもあることに気がつくようになります。

 きょう取り上げようとしている箇所にも、救いについて不安の中にある私たちを、確信へと引き上げてくれる言葉が語られています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 3章19節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった”霊”によって分かります。

 前回取り上げた個所の最後で、ヨハネは「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」と呼びかけました。もちろん、その前提には、私たちの愛に先立って、神がイエス・キリストを通して私たちをまず愛してくださったという事実があります。ヨハネが「行いをもって誠実に愛し合おう」と言っているのは、先行する神の愛に応えて生きよう、ということです。

 言い換えれば、先行する神の愛を受け止めるのでなければ、ヨハネの呼びかけは実に意味がないことです。

 さて、神の愛に応えて生きるということは、神の愛が常に先行しているわけですから、そのこと自体が、自分が神に愛されているものであることを物語っていることになります。

 ところで、ヨハネはこの手紙の2章4節で「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。」と述べていました。裏を返せば、互いに愛し合うことを命じる神の掟に生きているなら、その人の内に真理があり、その人は真理に属しているということができます。

 つまり、互いに愛し合うことによって、神から愛されていることがいっそう明らかになり、愛し合うようにと命じる神の掟を守ることで、真理に属する者であることをはっきり知るようになるのです。そういう安心に生きることをヨハネは願っています。

 けれども、他方では、本当に自分は神の掟に生きているだろうか、ほんとうに神の愛に応えて互いに愛し合っているだろうか、という自分に対する厳しい問も心の中に湧いて出てくるというのも真実です。ヨハネは信仰者の心が責められるその事実をも率直に認めています。しかし、自分で自分を責める思いにまさって、神の心の広さに心を留めるようにとヨハネは勧めています。

 自分で自分の弱さや欠けを受け止めきれなくなったとき、神がすべてをご存じであることをまず思い出すことが大切です。そもそも、自分が救われたのは、自分が立派だったからではありません。罪深い者であったにも関わらず、神は私たちを救ってくださいました。私たちに足りなさをご存じの上で、いえ、足りないものであるからこそ、豊かなものとなるように神の愛の中に招き入れてくださったのです。そのことをもう一度心にとめるようにとヨハネは読者を励ましています。

 細かいことを言えば、19節の「真理に属していることを知る」という表現も「安心できます」という表現も、未来形で記されています。つまり、真理に属していることを知るのも、安心できるのも、今すぐというわけではないかもしれません。けれども、そういう将来が約束されているということです。この地上での信仰の歩みには不安が伴うかもしれません。けれども、そう感じている私たちを神が良くご存じなのです。そして、その不安から私たちを解放し、救いを確信する者へと確実に変えてくださるのです。そういう未来が約束されているということです。そういう意味で、現在の不安はとるに足りないともいうことができます。

 ところで、19節と20節でヨハネは、たとえ心に責められることがある場合にも心が安心していられる根拠を語りました。それは、ずべてをご存じである神の心が私たちの心よりもはるかに寛大であるからです。

 続く21節は、心に責められることがない場合のことを述べています。その場合は神のみ前で確信を持つことができるというのは、当然の帰結です。しかし、なぜわざわざそんな当たり前のことをヨハネは書いたのでしょうか。

 心に責められることの多い信仰生活だからこそ、悩むことが多く不安を感じているわけですから、心に責められることがないならば、という仮定は意味がないように感じるかもしれません。

 しかし、そうなのではありません。ヨハネは、神の掟を守っている、というもう一つの側面に心を向けさせているのです。たとえそれが不完全であったとしても、神の愛に応えて、互いに愛し合おうとしているその事実にも心を留めることの大切さを教えようとしているのです。できていないことに心を留めれば、心が責められてくるでしょう。しかし、今できていることに心をとめるなら、そうできている恵みに心を安んじることができるのです。

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