聖書を開こう 2020年3月5日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神の子として生きる(1ヨハネ3:4-10)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 クリスチャンにとって悩ましいことは、この地上での生活の中で、なお罪から完全には解放されていないという現実です。聖書自身、その現実を否定しません。罪は時々その存在感を現します。

 しかし、聖書は、クリスチャンの中になお残っている罪を、仕方がない諦めるべきこととは語っていません。むしろ諦めずにそれらと戦うべきことが勧められています。また、キリストの救いの御業の前に、それらの燃え残りのような罪は、救いにとって致命的な打撃を信仰者に対して与えることはできません。そうであればこそ、あきらめずに戦うことが可能です。

 けれども、水が高みに上るよりも低い方へと流れる方が簡単なように、罪深い人間にとって、ややもすると罪の中に安住する方が楽に感じます。もちろん、キリストによって救われた者が罪の世界に逆戻りすることは、どんな言い訳があっても、許されることではありません。しかし、罪深い人間は、惰性で罪にとどまるばかりか、理屈をこねてそれを正当化しようとします。

 おそらく、ヨハネがこの手紙を書いている背景には、屁理屈をこねて罪を正当化したり、罪をあたかも存在しないかのように扱おうとする者たちがいたからでしょう。ヨハネはそうした間違った教えから、どのように信徒たちを守ろうとしているのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 3章4節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。

 前回の学びでは、キリストを信じる者が「神の子」と呼ばれるほどに、神から愛されている存在であることを学びました。そのような恵みの中に生かされていることを、ヨハネが記しているのは、この恵みを自覚し、この恵みに応えて生きることをヨハネは読者たちに期待しているからです。

 ヨハネは手紙の冒頭から、御子イエス・キリストの内にある命の交わりについて記してきました。そして、キリストを信じて、この交わりのうちに人々が加えられることを願っていました。さらに、この命の交わりに加えられた人々が、絶対罪を犯さない人たちではないということを率直に認めつつ、しかし、罪を犯さないようになることを願ってこの手紙を執筆しています(1ヨハネ2:1)。

 そのためにも、何よりもまず、自分が神からどれほど愛されているかという恵みの自覚は、クリスチャンにとってとても大切な事柄です。そのことを前提に、きょう取り上げた個所は、罪の問題を取り上げます。

 ヨハネは、「罪とは法に背くことだ」と述べます。この場合の法とは、人間が定めた法律という意味ではありません。神の御心とでも呼ぶべき事柄です。端的にはモーセの律法、とくに十戒の中に定められている事柄です。イエス・キリストの言葉を借りていうのであれば、その要約は、神への愛と人への愛ということができます。罪とは神への愛に反することであり、あるいは人への愛に反することです。それは、単に具体的な行動に現れたものに限らず、言葉や内に秘めた思いも含まれます。

 「罪を犯さない」とは、言い換えれば、神の御心に従って神を愛し、人を愛して生きることです。罪人が罪を取り除かれ、そう生きることができるように、御子が遣わされた、とヨハネは述べます。

 御子イエス・キリストを信じて、なお罪の中にとどまり続けるとすれば、それは、御子が遣わされてきた目的に反する生き方だと言わざるを得ません。それは言ってみれば、病気を癒すためにやってきたお医者さんにかかりながら、わざと不健康な生活を送り続けるのと同じくらい、矛盾した生き方です。

 ヨハネは前回、クリスチャンが受けている恵みについて、つまり、神の子とされている恵みについて述べました。それは、その恵みに応えて、神の御心に沿って生きるようにと勧めるためでした。今度はそのことを前提としながら、さらに、御子イエス・キリストが遣わされた目的に沿った生き方をするようにと話を進めています。

 もし、キリストによって罪から解放されたことを信じていながら、敢てそれに矛盾する生き方を送り続けるとすれば、それは、自己破綻した生き方です。もちろん、ヨハネが問題にしているのは、弱さのために犯してしまう罪の問題ではありません。むしろ、罪を犯すことに正当な理由があると確信して、あえて罪の中に留まるような生き方です。

 具体的に、そのようなことが起こりえるのでしょうか。

 例えば、パウロはローマの信徒への手紙の中で「信仰による義」の問題を扱うときに、この恵みが増し加わるように罪にとどまることは正しいかを問うています。確かに、私たちは恵みにより信仰を通して義とされ、罪から救われた者です。しかし、その恵みをもっと受けるために、もっと罪を犯すというのは本末転倒した話です。

 あるいは、肉体は朽ちていくものにすぎないということを逆手にとって、罪は肉体が犯すものなので、内なる霊には影響しないという屁理屈から罪を犯す者たちもいるでしょう。

 しかし、どんな屁理屈をこねたとしても、それは、御子イエス・キリストが遣わされてきた目的にそぐわない生き方です。ヨハネの言葉を借りれば、罪を犯す者は悪魔に属するのです。正確に訳すとすれば、罪を犯し続ける者は、悪魔に属するのです。

 ヨハネがこの個所を通して言いたいことは、神の恵みに応えて、神の子として、神の御心に従って生きること、そのことを神は願っているということです。

 神の子とされているのですから、まことの神の子イエス・キリストに似たものとされていくのは、当然のことです。そして、そのことをこそ願うべきなのです。

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