聖書を開こう 2019年5月9日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  最後の晩餐の準備(マルコ14:12-16)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 過越の食事というのは、ユダヤ人にとってはとても大きな意味がありました。イスラエル民族にとってのその大きな意味合いは、食事の最中に子供たちが尋ねる質問によって、繰り返し明確にされていました。

 出エジプト記12章26節以下にはその意義がこう記されています。

 「あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」

 このようにして、イスラエルの民族は過越の夜に起こった出来事を、民族の救いとして明確に覚え、子々孫々語り伝えてきました。この過越の食事を弟子たちと共に取ることをイエス・キリストは望んでいらっしゃいました。しかも、イエス・キリストにとっては、そのときの過越の食事が同時に最後の晩餐となりました。その過越の食事の準備をするようにと弟子たちにお命じになった場面が、きょうこれからお読みしようとしている聖書の個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章12節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 除酵祭の第1日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた2階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

 イエス・キリストが弟子たちと過越の食事をするのは、全部で一体何回あったのか、はっきりとしたことは残念ながら分かってはいません。少なくともマルコによる福音書だけを読む限りでは、イエス・キリストと弟子たちがともに過越の祭りを迎えるのはこの時が初めてのことのように記されています。ただ、一般的にはヨハネ福音書の記述から計算して、イエス・キリストの活動は三つの過越祭にわたっているだろうと考えられています。

 その地上での生涯最後の食事となる過越祭の食事を、イエス・キリストは弟子たちと共に過ごそうとされています。

 「除酵祭の第1日」すなわちニサンの月の第14日に、過越の小羊がエルサレムの神殿で屠られました。祭りの参加者たちはその日の晩、それぞれ家族ごとに、親族ごとにグループを作って過越の祭りの食事に与りました。

 弟子たちは祭りの食事のことが気になって、キリストに尋ねます。

 「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」

 するとイエス・キリストは不思議なことをおっしゃいます。

 「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた2階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」

 もちろん、この部分をなんの打ち合わせもないかのように読む必要はないだろうと思います。あらかじめイエス・キリストと家の主人との間で打ち合わせがなされていたとしても不思議ではありません。むしろその方が自然かもしれません。マタイによる福音書では、「都のあの人のところへ行って」と記していますから、イエスにも弟子たちにも2階の広間を提供してくれた家の主人とは面識があったに違いありません。

 ただ、この個所を読むにつけ思うことは、キリストの活動を支える無名の人々がエルサレムにいたということです。かつて、イエス・キリストがエルサレムに入城される時にロバの子を貸した人物もそのような人物であったかもしれません。ベタニアでイエスにナルドの香油を注いだ人物も、マルコによる福音書の中では無名の人物のままですが、福音が語られるところで、誰よりもその行いが語り継がれる人物です。

 14章から始まるキリストの受難物語は、外面的にはイエス・キリストを十字架にかけて殺してしまおうとする、人間の恐ろしい物語です。外見上は、人間の罪が神の子に勝ってしまう恐ろしい話です。そして、このような人間の恐ろしい企てに、神の子イエス・キリストがただ一人寂しく立ち向かう話のように思われてしまいます。確かに、十字架の死は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶほどに悲惨なものでした。その死に際しては誰も助けの手を差し伸べることが出来ないほど孤独なものでした。

 しかし、イエス・キリストの地上での最後の時を準備するために、祭司長たちや律法学者、それに裏切り者であったイスカリオテのユダとは、はっきりと違った仕方で、キリストの死の準備をした人たちがいました。きょう登場する2階の広間を提供する家の主人もその一人です。福音書にこそその名前が記されることはありませんが、おそらくは初代の教会の人たちにはよく知られた人物だったに違いありません。

 神の救いのご計画の中では、有名な人物もたくさん登場します。しかし、名もない働き人を通して、神は着実に救いの計画を実現してくださることを覚えましょう。イエス・キリストの頭にナルドの香油を注いでイエスの死の準備をした女と同様に、この2階の広間を提供した家の主人もまた、救いの業の準備に与った一人の人物だったのです。

 イエス・キリストの受難と十字架の記事を読むときに大切なことは、今までの学びで繰り返し述べてきましたが、それは、決してキリストを殺そうと企む人間の計画が、計画通り首尾よく運んだということではありません。

 イエス・キリストご自身が、事が起こるよりも前に、ご自分の受難について語ってこられた通り、神によってすべてが整えられ、導かれていたということです。そうであればこそ、神の救いの業は確実なのです。

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