聖書を開こう 2019年1月3日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  祈るときの心得(マルコ11:20-25)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教の信仰について、繰り返し尋ねられる質問がいくつかあります。その一つはお祈りについてです。

 お祈りすると言うのは、普通は何か願い事があってのことです。ところが、その願い事はいつも聞き挙げられるとは限りません。それならなぜ祈るのか、何をどう祈ったらいいのか、そういう疑問が湧いてきます。

 神の御心を祈り求めること、これがお祈りだと言ってしまえば、いかにももっともらしいことです。しかし、何が神のみ心なのか、それがはっきり見えてこないので、また一つ疑問が増えてしまいます。

 そういう人間の素朴な疑問に答えるかのように、福音書の中には、お祈りについてのイエス・キリストの教えや、イエス・キリストご自身のお祈りの模範がたくさん出てきます。

 きょうの個所も、お祈りについてのキリストの言葉が記された個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 11章20節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

 きょうのお話は、先日取り上げたイチジクの木の場所から始まります。前の晩、エルサレムの城壁の外で夜をすごした一行が、再びあのイチジクの木の前を通ってエルサレムに向かおうとしています。すると、そのイチジクは根から枯れてしまっている状態です。ペトロが目ざとくその枯れたイチジクの木を見つけて、イエス・キリストの注意を促します。

 「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」

 このイチジクの木というのは前の日に同じ場所をイエス・キリスト一行が通りかかったときに、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」とイエス・キリストが言われたその同じ木です。

 その個所を取り上げたときにもお話しましたが、これは演じられた預言の言葉でした。その言葉の意味は、不毛なイスラエル民族を厳しく戒める神の御心を告げたものでした。

 根から枯れたこのイチジクの木を見たペトロが、イエス・キリストの語られた預言の意味をどこまで深く理解したのかは分かりません。ただ、ペトロにとっては、前の日にキリストが呪った木が、きょうになってもう枯れてしまっているという驚きの気持ちでいっぱいです。他の弟子たちとても同様でしょう。

 このような驚きでいっぱいの弟子たちに、この機会を捉えてイエス・キリストは祈りについてお教えになります。

 まず初めにキリストがお求めになっていらっしゃることは、神を信頼し、神を信じて祈ることです。

 イエス・キリストはここで、随分大げさな表現を用いて神への信頼を描いています。

 「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」

 信じた通り確信を持って祈るなら、何でも必ず聞かれるというのであれば、これは大変なことです。山がいくつあってもたりません。そのような勝手気ままな祈りが、信仰の名によって聞き挙げられるのだとすれば、この世の中は混乱以外の何ものでもありません。

 しかし、このような勝手気ままな祈りが聞き上げられないのは、裏を返せば、祈っているわたしたち自身がほんとうはこのような祈りがよくない祈りだと薄々感じながら祈っていると言うことでもあるような気がいたします。わたしには、山に向かって「海に飛び込め」、などと意味のない祈りを捧げることに確信が持てません。従って、山が海の中に移ることもないのです。むしろ、このような無意味な祈りは祈るべきではないでしょう。

 あるいは逆に、山に向かって「海に飛び込め」と祈るほどの積極的な理由を見出し、その理由が正しいと確信するならば熱心に祈るべきなのです。

 ところが、私たちの祈りの大半は、疑いの多い祈りです。ほんとうに祈っている事柄に必然性があるのかどうか、その点の確信自体が怪しいのです。疑いながら祈ることほど、危ういものはありません。

 イエス・キリストがおっしゃりたいことは、祈りによって山が実際に海の中に飛び込むかどうか、なのではありません。そうではなく、どんな祈りにせよ、そのことを神に願う正当な理由に確信が持てるかどうかなのです。そこが問題なのです。

 イエス・キリストは祈りに関して、もう一つ大切なことを教えてくださっています。

 それはどのような心で神に祈っているのかと言うことです。

 そもそも造り主である神が、造られたものに過ぎない人間の祈りに耳を傾けると言うことは、それ自体、決して当然のことではありません。まして神が罪ある人間の祈りに耳を傾けるというのは、神のへりくだりと譲歩以外の何ものでもありません。

 神からの赦しをいただいているからこそ、神と向き合い、神に祈りを捧げることができるのです。

 ところが、その神から赦されている立場の者が、誰かと仲たがいして、相手を赦すことができないとすれば、それは神の赦しを無にしてしまうことです。そもそも、誰かを絶対に赦せないという心で、神からの赦しを受け取ることも、神との関係を正常に保つこともできるはずはありません。

 イエス・キリストは、マタイによる福音書の6章の中で、弟子たちに主の祈りを教えられたあと、やはり同じように祈ることと赦すこととの関係を強調していらっしゃいます。

 神からの赦しは誰かを赦すことで確かなものになり、誰かを赦すことで神との間に平安な関係が築かれるのです。そのような平安な思いのないところに、真の祈りは存在しないのです。

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