キリストへの時間 2019年8月11日(日)放送

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: あらわになったずる賢さ



 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 旧約聖書『創世記』の3章には、人類が堕落した記事が記されています。この記事を女性が読んだとき、不快に思うかも知れません。というのは、不名誉なことに、最初に誘惑を受けたのは男性ではなく、女性だったからです。

 けれども、この記事を公平な目で読むとすれば、女性だから最初に誘惑されて見事に罠にかかってしまったというニュアンスはどこにも読み取ることはできません。性別と誘惑の順番は、この記事を読む限り、明白な関連性を読み取ることはできません。この記事で「女」と書かれている部分を「Aさん」と読み替え、「男」と書かれている部分を「Bさん」と読み替えて、性別をわからないようにしたとしても、ここに記されている事柄がけっして不明瞭になるわけではありません。女だから最初に誘惑され、男だから女にそそのかされた、という考えを持ち込んでこの個所を読むことは危険な読み方です。

 もちろん、結果として女性が先に蛇の誘惑を受けたのは、聖書が記しているとおりですが、それは女性だからではなく、むしろ、神の命令を直接聞いたアダムから、間接的に神の言葉を学んだという違いがあったからでしょう。もしエバが先に造られ、アダムがエバを通して神の言葉を間接的に学んでいたとしたら、間違いなくアダムが先に誘惑を受けたことと思います。もっとも、これは推測の域を出ないことですので、これ以上深入りすることはやめておきます。

 それにしても、女が先に誘惑を受けたという事実から、そこに男女の性別に関して優劣をつける考えは、ここに記されている事柄を浅くしか読んでいないからだと感じます。創世記が記す人類の堕落物語は、一方を他方に勝って悪く描いているのでは決してありません。むしろ、二人の共同の責任を明白に描いているように感じられます。

 というのは、聖書が記していることがらを注意深く読むと、エバは蛇から誘惑されたときに、決して単独でそこにいたわけではないことが明らかだからです。創世記はこう記しています。「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(創3:6)

 この記事は、アダムとエバの距離が木の実を手渡しできる距離であったことを物語っています。文字通り「一緒にいた」アダムなのです。とするならば、アダムは蛇とエバの間で交わされた会話のすべてを聞いていたはずです。聞いていながら、それを黙認していたアダムこそ、ずる賢いと言えるかもしれません。取って食べるなら「必ず死ぬ」と言われていた木の実から取って食べようとするエバを、少しも止める様子はありません。無責任にも、蛇の言うことと神が言うこととどっちが正しいか、傍観者のように見ているようにも受け取れます。その時点で、アダムもエバ同様に蛇の誘惑にまんまと引っかかっていたということでしょう。

 あろうことに、人の生死に関わる重大な問題が目の前で起ころうとしているにもかかわらず、アダムは何の行動もとろうとしません。しかも「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」(創2:23)とまで呼んだ伴侶が死の道を選ぼうとしているのにです。

 もちろん、エバにとってもアダムにとっても、「死ぬ」という経験はありません。「必ず死ぬ」と言われても、ピンと来なかったのかもしれません。しかし、たとえそうだとしても、どうなるか分からないことを好奇心から見ようとするアダムの生き方は、愛から外れた生き方と言わざるを得ません。



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