キリストへの時間 2019年1月6日(日)放送

牧田吉和(宿毛教会牧師)

牧田吉和(宿毛教会牧師)

メッセージ: 初めに、神は天と地を創造された

 おはようございます。正月三が日は過ぎましたが、あらためて「新年おめでとうございます」。新年最初の放送である今朝、聖書の第一頁第一行に注目したいと思います(創世記1章)。第一頁は「はじめに神は天地を創造された」という単純なこの言葉で始まっています。しかし、この単純な一つの言葉にキリスト教信仰の特色がきわめて鋭い形で表現されています。

 この一つのことばによって「天地のすべてのものは神によって創造されたものである。」「神以外のすべてのものは神ではない。」と聖書は宣言しています。したがって「はじめに神は天地を創造された」というこの言葉は、キリスト教信仰の偶像礼拝に対する断固とした姿勢を明らかにしています。キリスト教信仰は、素朴なものから洗練されたものまで、あらゆる形の偶像礼拝を否定しています。

 素朴な例と言えば、私自身、子供のとき村の神社で友達とよく遊びました。その神社のご神体は、塀で囲まれた場所の奥のほうの小さな社(やしろ)に納められていました。あるとき友達と図って、塀を乗り越え、恐る恐る小さな社の扉を開けてみました。中に入っていたのは少し大きめの何でもない丸い石だけでした。“なーんだ、これだけか”とがっかりしました。しかし、その後で何か祟りがあるのではないかと恐ろしく、神社の前を通るとき、いつも“ごめんなさい”と言って通ったことを覚えています。

 これは子供のいたずらですが、たとえ大人であっても神々や諸々の霊に捕らえられてしまっているケースもあります。多くの人がスマホやパソコンを操る時代なのに、今も方角が悪いから家を直したとか、婚約さえも破棄したとか、その種のことが日常茶飯事で起こっています。あるいは自分の人生が悪い星の下にあり、暗い運命の力に縛り付けられていると悩んでいる人もいます。素朴と言って決して笑い飛ばすことのできない現実があるとも言えます。

 私自身は、中学生のときに友達に誘われて教会に行き、はじめて聖書に触れました。聖書の第一頁を開き、「はじめに神が天と地を創造された」という言葉に出会ったとき、神がいるとすればあの村の社の石ではなく、天地を創造された神が本当の神だろうなあ、と心のうちに思いました。やがて、聖書を学び、聖書の神を信じるに至ったとき、神々や諸々の霊の世界からまったく解放され、心が実にさわやかになったことを覚えています。

 まして聖書の神がイエス・キリストを十字架につけるほどまでに私たちを愛し、また私自身を愛して下さる方であることを知ったとき、心は平安に満たされ自由になりました。もはやおみくじを引く必要もなく、占ってもらう必要もまったく感じなくなりました。天地を造られた神が私を愛し、日々導いてくださると信じることができたからです。このような意味で、「はじめに神は天地を創造された」という言葉は、私たちを迷信や諸々の霊力や運命の鎖から解き放つ力を持っているのです。

 新しい年に何が私たちを待ち受けているのかわかりません。困難や試練も待ち受けているでしょう。しかし、イエス・キリストを賜わるほどまでに私たちを愛してくださった神、そして今も愛し続けてくださる神、天地の造り主なる神が私たちと共にいてくださるのです。

 ですから使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章28節で次のように語ることができたのです。
 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 私たちも、この聖書のことばに心からアーメンと唱えつつ、新しい年もイエス・キリストの父なる神、天地の造り主である神を仰ぎつつ力強く歩み続けたいと思います。

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