聖書を開こう 2018年10月11日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  キリストを受け入れるとは(マルコ9:30-38)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書を読む楽しさと言うのは、年齢とともに、また、人生経験とともに、聖書の意味を深く味わえることにあるように思います。私が初めて聖書に触れたとき、いったいこの書物が何を言おうとしているのか、わかったようでわかりませんでした。牧師になるための勉強をはじめた頃は、もうだいぶわかっているつもりでいましたが、今から振り返ってみれば、それは浅い読み方でしかありませんでした。

 聖書はいつ読み返してみても、こうした新鮮な驚きをいつも与えてくれるので、読み手を飽きさせません。

 別の見方をすれば、キリストを理解すると言うことは生涯をかけてのテーマであるとも言えます。また、神が私の生涯を通して、キリストに対する理解を増し加えて下さっているのだとも思います。

 それはキリストの12人の弟子たちもそうであったと思います。「あなたこそ神の子、メシアである」と告白した弟子たちでさえ、その本当の意味を知るには時間が掛かったのです。

 きょうの個所にも、キリストを受け入れるとはどういうことなのか、そのことが記されます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 9章30節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて3日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、12人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、1人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の1人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 イエス・キリストがエルサレムで受けようとしている苦難とそれに続く復活とについて、マルコによる福音書には、三度予告の記事が記されています。きょうの個所は二度目の予告の記事です。最初の機会は、ペトロが「あなたこそ、神の子メシアです」と信仰を告白した直後のことでした。

 二度目に予告が記される今日の個所は、イエス・キリストが弟子たちを呼び寄せて直接語りかけたと言う形ではありません。既にキリストがおっしゃられたことを、弟子たちが心の中で反芻している、そういう記事です。

 ただし、弟子たちにはその意味がわからず、そうかといって、その話題を口にするには恐ろしくて、聞くに聞けない様子です。

 何故、弟子たちがそんなことを道々思いながら旅を続けたのでしょうか。

 きょうの個所はこう始まります。

 「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」

 イエス・キリストの足取りが明らかにいつもと違うことを弟子たちは感じていました。普段ならもっと人に近づいて、病人を癒したり福音を語りかけたりするはずです。しかし、人に気づかれないように行動されるキリストの姿を見て、弟子たちにはこのいつもとは違う行動の理由がはっきりと想像できました。それは、エルサレムで起ころうとしている事件、イエス・キリストご自身が予告されたあの事件のためであると、弟子たちは思ったからです。

 弟子たちにとって、自分たちの師であるお方が殺されてしまうという予告は受け入れがたいことです。特に、あの山で輝くばかりのキリストの姿を目撃した3人の弟子たちにとっては、よもや栄光の主が人々の手によってなぶり殺されてしまうなどとは想像もできないことです。それだからこそ、弟子たちはイエス・キリストがかつて予告されたあの言葉の意味を理解し受け留めようとはしなかったのです。さりとて、恐ろしくてその真意を聞くこともできませんでした。

 この数行の記事の中にこそ、キリストを理解しようと努めながらも、しかし、十分にキリストを把握しきれない弟子たちの姿が描かれています。

 さて、カファルナウムに到着すると、イエスは道々彼ら弟子たちが論じていたことを尋ねます。

 実はイエス・キリストには弟子たちの心の内が読めていました。ご自分が予告しておいたあの言葉が、弟子たちにどう受け留められているか、感じていらっしゃったのです。

 イエス・キリストがご自分のメシアとしての使命を伝えたあの言葉を弟子たちがどう受け留めたのか、それは道々彼らが論じていたことから明らかです。

 弟子たちは、だれがいちばん偉いかと道々議論し合っていました。

 何故、そんな横道に議論が発展していったのかは、簡単に説明がつきます。弟子たちは、キリストが果たそうとされていた使命の中心的な部分を完全に無視してしまっていました。弟子たちの名誉のために言えば、キリストが殺されることなど、受け入れがたく、また、あってはならないことだと思ったからです。その部分に耳をふさぎ、目をつぶれば、残るのは復活の約束と、先ほど目にした栄光に輝くキリストの姿です。その栄光のキリストのもとで誰が一番弟子か、それはとても興味のある話題でしょう。

 しかし、そのような議論に興じる弟子たちに、キリストは小さな子供を連れてきて、彼らのまん中に立たせておっしゃいました。

 「わたしの名のためにこのような子供の1人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」

 この場合の子供とは小さな者の代表です。この取るに足らない小さな者にまで仕えるのがメシアの使命です。しかも、この小さな者のためにも命を捧げて仕えるのがキリストです。この小さき者の上に立つことはキリストが望まれることではありません。イエス・キリストが望まれることは、このような小さな者にまで命をかけて仕えるキリストを受け入れることです。そして、このキリストに倣って小さな者たちに仕える者となることが、イエス・キリストを受け入れることなのです。それこそが「あなたこそ神の子、メシアです」と告白する弟子の生き方なのです。

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