聖書を開こう 2018年10月4日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  信仰のあるところに(マルコ9:20-29)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書を読んで、そこから何を期待すべきかということは、簡単なようで難しいところがあります。特に奇跡物語と呼ばれるような個所を読むときには注意が必要です。

 きょう学ぼうとしている個所も、奇跡に関わるお話ですが、果たして、ここで起こったことをそのまま私たちの日常に期待してもよいものかどうか判断するのが難しいことです。もし、期待すべきだとすれば、奇跡が起こらなかったときに自分たちの信仰の足りなさを疑うことになるでしょう。

 しかし、もし、期待すべきではないとすれば、私たちの信仰は最初から理性や常識にとらわれて萎縮したものになってしまいます。

 結局のところ、それぞれの奇跡物語が語ろうとしていることに耳を傾けるのでなければ、奇跡を通して語りかけてくる神の御声を聞き逃してしまう結果になるのではないでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 9章20節〜29節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 きょうの個所は先週の個所からの続きです。そこには山から戻ってきた3人の弟子たちが目にした光景が描かれています。つい先ほどまでまばゆいほどに輝くキリストの姿を目撃した3人の弟子たちにとっては、あまりにも無力でドロドロとした人間の世界です。

 前回の学びでは愛のない弟子たちや律法学者、群衆たちの無力な姿を見てきました。今回は汚れた霊に取りつかれた息子の父親に焦点をあててみたいと思います。

 この父親がどれほど苦悩に満ちているかは、目の前に起こっている現実を見れば、一目瞭然です。

 キリストのもとに連れてこられたその父親の息子は、すぐに引きつけをおこし、地面に倒れ、転び回って泡を吹いています。それがどんなに日常的な症状だとしても、見慣れてしまうと言うことは決してないでしょう。親ならば、自分が身代わりになってでも、何とか子供を苦しみから解き放ってやりたい、そう思うものです。

 苦しみのた打ち回る自分の息子を見るたびに、何も有効な手立てをなすことができない自分の無力さにやるせなさを感じていることでしょう。親として、これほどの苦悩はありません。

 しかも、そのようなことは、子供が幼いときからのことでした。転びまわった挙句の果て、火や水の中にさえも転がりこんでしまうくらい危険なこともありました。うっかり目を離すこともできないほど、毎日が緊張と不安の連続です。この父親の苦悩は休まるところがありません。

 誰かが自分たちを憐れんでくれるなら、その憐れみにすがって安息を得たい、そう思うのは当然でしょう。

 この父親はイエス・キリストに向かって、こう言いました。

 「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」

 「もしあなたに何かできるなら、何でもいい。とにかくわたしたちを憐れんで助けて欲しい」…そう願うのは当然です。

 しかし、イエス・キリストはこの父親の言葉に対してこう言いました。

 「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」

 この言葉はちょっと意地悪のように聞こえるかもしれません。父親にしてみれば、「できれば」と言ったのは、これと言った深い意味があったからではなかったはずです。ただ、藁をもすがる思いで、わずかの可能性にでもかけたのでしょう。

 では、イエス・キリストがこの父親の何を問題にされたのでしょうか。それは、この父親でさえも気が付いていなかったような、疑いの気持ちだったのです。1パーセントの望みにかけるといえば聞こえは良いですが、そもそも99パーセントは不可能かもしれないという前提が問題なのです。神に百パーセントの信頼を置いているのであれば、「あなたにもしできるなら」などとは決して言わないでしょう。もし、言うのであれば、1章40節に登場した重い皮膚病を患う人のように「御心でしたら」というべきだったのでしょう。

 信じると言いながら、どこかで「できないかもしれない」という思いを払しょくできない、そういう態度を問題にされたのです。であればこそ、イエス・キリストは信じることの大切さを説かれたのです。

 では、信じれば何でも思い通りになるのか、というと、そういうことではありません。ここで学ぶべきことは、私たちは神に願う前から自分で結論を出して、半分諦めたような信仰しかないのではないかということなのです。

 願いを聞き入れるか聞き入れないかは、神がお決めになることです。しかし、どんな結果が出たとしても、神が私たちを憐れまずに見捨てると言うことはありません。そのことを固く信じる信仰が求められているのです。そう信じて神に大胆に願い出ることが大切なのです、神に対するまったくの信頼こそが、私たちを苦悩の底から引き上げてくれます。

 同じような過ちは、実は弟子たちにもありました。彼らは悪霊を追い出せなかったことで、律法学者と議論しました。しかし、そのことで神に祈り求めることはしなかったようです。神に助けを求めるよりも、議論に熱中する弟子たちです。だからこそ、そういう弟子たちに対して、イエス・キリストは「この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と諭されたのです。

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