聖書を開こう 2018年6月21日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神の掟を軽んじる危険(マルコ7:1-13)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どんな決まりでもそうだと思いますが、できるだけ事細かく決めておいた方が、その決まりを守ろうとする人にとって判断を迷うことがありません。たとえば、「ここでは靴を脱いでください」ということを決めたとします。「靴」という言葉を厳格にとれは、草履や下駄は脱がなくてもよいということになります。しかし、「履物」の代表として「靴」を例として挙げているのであれば、当然、草履も下駄も脱がなければなりません。では、スリッパを用意して履き替えるのは許されるのか、となると、この決まりの文句だけからでは判断しかねます。その決まりが何故定められたのか、その趣旨にさかのぼって考えなければなりません。

 イエス・キリストの時代のユダヤ人にとって、神の掟を守ることは、神の掟を事細かく解釈することと切り離せませんでした。それはある意味もっともな話です。しかし、解釈を巡る議論は、しばしば形式にこだわりすぎて、事柄の本質を見失ってしまう危険があります。場合によっては、形式が合致しているかどうかだけが問題とされ、心の中がないがしろになってしまうことさえ起こります。今日取り上げようとしている箇所は、まさにそうした偽善に陥る危険が指摘されています。

 それでは早速今日の聖書の箇所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 7章1節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。…ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。…そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 きょうの個所に登場するのは律法学者とファリサイ派の人々です。どちらも、旧約聖書、とくにモーセの律法に精通し、モーセの律法が求める生き方を実践しようとする人々です。そして、このマルコによる福音書の中では、今までにも何度か登場してきましたが、いつもイエス・キリストに対して敵対する立場の人たちです。

 さて、彼らはイエスのもとに集まって、イエスの様子をうかがっています。都合よくイエスの弟子たちは手を洗わずに食事を始めました。それはイエスを詰問するにはいい口実でした。何故なら、弟子たちのしたことはユダヤ人の習慣に反することだったからです。

 ここでいうユダヤ人の習慣というのは、衛生上の理由からではなく、宗教的な理由によるものです。つまり、神を信じない異邦人がうろつくこの世から帰宅したときには、宗教的な汚れを取り除いてからでないと、食事をしないというものでした。

 もちろん、このような習慣は旧約聖書の律法によって直接求められているものではありません。そうではなく、律法が求めている精神をより具体的に生活の中で守るために人間が定めた、人間の言い伝えに過ぎないものでした。もっとも、人間が考え出した言い伝えとはいえ、しかし、その精神は神の律法に忠実に生きようとする思いから出たものですから、あながち悪いとは決め付けられないでしょう。

 しかし、イエス・キリストは弟子たちを非難する律法学者やファリサイ派の人々を容赦なく「偽善者だ」とおっしゃいます。その最大の理由は、心と行動とが一致していないからです。表面的には聖なる神のみ前で生きるために、いつも自分自身を聖別しているように見えても、心の奥底では神の清い御心とは一致していないからです。

 そもそもギリシャ語の偽善者という言葉は、仮面をつけて役柄を演じる役者を意味する言葉でした。役者は台本に書かれた役を演じて、観客を喜ばせることが仕事です。その場その場を役柄通りになりきればよいだけです。役が終ればまた元の自分です。

 しかし、神の律法に従って生きるというのは、神の律法を演じるのとは違います。それらしく体裁を整えるというのでは決してありません。神の前で生きる清さとはどういうことなのか、その実質を考えたとすれば、手を洗うという表面的な行為で満足できるはずはありません。

 外面的な行為を整えれば、心もそれによって清められていると考える愚かさがそこにはあります。

 しかし、彼らの愚かさはそればかりではありません。様々な人間的な掟を次々に増やしていくことで、完全に聖書から外れてしまっているということです。たくさんの言い伝えを作り上げた目的は、神の言葉に忠実に生きるためであったはずです。しかし、結果として、神の言葉が求めていることと矛盾さえしてしまっているのです。

 その具体的な例の一つとして、コルバンについての言い伝えを挙げています。つまり、父と母を敬うべきことは十戒の中で神が求めていらっしゃることですが、コルバンに関するユダヤ人の規則が十戒の定めと矛盾していると指摘します。父母に差し上げるはずのものを、コルバン、つまり神への供え物だといえば、父母へそのものをあげなくても良いというのです。

 イエス・キリストは人間の考え出す様々な宗教的な敬虔さが、かえって神の言葉そのものと矛盾してしまう愚かさを指摘します。そればかりか、そのことにさえ気が付いていない人間の愚かさを暴き出しているのです。

 そもそも、宗教的な汚れについて、マルコ福音書がキリストとファリサイ派とのやり取りをここに記すのには、深い意味があります。

 それは、この事のあと、7章24節以下で、イエス・キリストは異邦人の女性にも救いの道を開かれているからです。異邦人を軽蔑し、異邦人よりも清いと考える彼らこそが、神の言葉をないがしろにし、真の清さから遠い存在なのです。

 しかし、それはけっして他人事ではありません。わたしたち一人一人、何をしても神のみ前に清さとは程遠い存在であり、神によらなければ真の清さをいただくことはできない存在なのです。

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