聖書を開こう 2018年6月7日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  安心しなさい(マルコ6:45-52)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 頭では理解できていても、心の底からそうだと確信し、その通りに生きるということは、なかなか難しいことです。たとえば、聖書は繰り返し、神がわたしたちと共にいてくださるということを約束しています。イエス・キリストご自身が「神は我々と共におられる」という名前をもってお生まれになり、お語りになるメッセージの中で、父である神がわたしたちを養ってくださるのだから、無用な心配で心を悩ますな、とおっしゃってくださっています。そして、復活のキリストが父なる神の身許へお帰りになるときも、地上に残る弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっています。

 これらのことばは、本当にそのとおりだと頭では理解できるでしょうし、実際、そのことを信じて日々を過ごしたいと願っています。けれども、自分の身に様々な災難が降りかかるとき、「神が一緒にいてくださっているはずなのに、どうしてこんな苦しみが自分に襲ってくるのだろう」と共にいてくださる神の存在を疑ってしまうことがあります。

 あるいはことが起こる前から、自分の力で災難に備えようとして蓄えるあまり、現実に苦難の中にいる人たちへの憐みの心を閉ざしてしまう、ということさえしてしまいます。

 しかし、そのような信仰のあやふやなわたしたちに、それでも一緒にいてくださる神の恵みと憐みを今日の個所から学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 6章45節〜52節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

 前回は、たった5つのパンと2匹の魚から男だけで5千人もの人々に食べ物を分け与えられたイエス・キリストの奇跡を学びました。その場に居合わせた人々のことを考えると、この奇跡を目の当たりにして、どれほど興奮した状態にあったのかは、容易に想像がつきます。同じような出来事を記したヨハネによる福音書の6章には、興奮した人々が、キリストを自分たちの王様にしようと、連れて行こうとしたと書かれています。

 先ほどお読みしたマルコ福音書には、弟子たちを強いて舟に乗せ、群衆を解散させるキリストの姿が描かれています。このようなことの背景には、ヨハネによる福音書に描かれているのと同じようなことが起りそうな気配をキリストは感じていたのかも知れません。興奮した群衆がイエス・キリストこそ自分たちの王だと担ぎ出したら大変な騒ぎです。そんな騒ぎに弟子たちを巻き込みたくないという思いが、「弟子たちを強いて舟に乗りこませる」キリストの行動に見て取れます。何よりも群衆が望むような王になるつもりなど、キリストにはもとからありませんでした。

 マルコ福音書の6章30節に戻って読み直してみると、この日は、派遣から戻ってきた12人の弟子たちの報告を聞き、彼らを休ませるために、人里離れたところに弟子たちを向かわせる予定でした。しかし、飼う者のいない羊のような姿の群衆を見たキリストが、この群衆に憐みの心を向け、神の国の教えを説かれたばかりか、食べるものさえも分け与えたというのが、今までの話の流れでした。

 そういう意味からしても、中断されていた弟子たちの休みの時を、できるだけ早く与えたいという思いがイエス・キリストにはあったことでしょう。弟子たちを強いて舟に乗せ、ご自身の責任で群衆を解散させるキリストでした。弟子たちが休養を取ることの大切さを、誰よりもご存知のキリストです。

 そのキリストご自身も、群衆と別れた後、祈るために山へ行かれた、とあります。祈るキリストの姿こそ、わたしたちの模範です。5千人もの人々を養うことができる力があっても、それでも、父なる神と語り合うときを大切にされたキリストでした。父の御心を求めて祈ることの大切さを教えられます。

 さて、先に舟で送り出された弟子たちはどうなったのでしょう。湖の真ん中で逆風にあい、漕ぎ悩んでいます。もちろん、弟子たちのうちの何人かは、ガリラヤ湖で漁師を生業とする人たちでしたから、このような逆風には慣れていたかもしれません。しかし、弟子のみんながそうではありませんでした。逆風で舟が大揺れになって中々進まないことに慣れていない弟子たちは、この状況にうろたえてしまったかもしれません。あるいは、漁師出身の弟子たちに向って文句の一つでも言ったかもしれません。全員がこの状況に慣れていれば、心を一つにして対処することができたでしょう。あるいは逆に全員がこの状況に慣れていなくても、心を一つにして問題に立ち向かったかもしれません。しかし、ここにいる弟子たちは、この逆風の状況に対して経験値がバラバラでした。「漕ぎ悩む」とはただ単に物理的に舟の制御が難しいというばかりではありません。乗り合わせた弟子たちの心を一つにする難しさもあったでしょう。

 ここで大切なことは、そのすべてをイエス・キリストが関心をもってご覧になっておられたという点です。父なる神との祈りに没頭される中にあっても、片時も弟子たちのことをお忘れにならないキリストです。

 漕ぎ悩む弟子たちをご覧になって、キリストは湖の上を歩いて、弟子たちのもとへと近づいていきました。そして、弟子たちの傍を通り過ぎようとされたとあります。ところが、弟子たちには、その姿が幽霊としか思えず、大声をあげてします。

 ただ怖くて震えていたから、イエスだということに気が付かなかったのではありません。マルコ福音書は「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とこの出来事を結んでいます。

 弟子たちは既に一度イエスが嵐を静める力を持つお方であることを体験していました(4:35以下)。その上に5千人もの人々を養う力をもったお方であることを見ていたはずです。それらのことを弟子たち一人一人がもっと心の中で暖めていたとしたら、近づいてくるキリストに素直に目が開かれ、もっと率直に助けを求めたことでしょう。

 わたしたちは、しばしば自分のことで精いっぱいになってしまい、助けを求めることさえ忘れてしまうことがあります。あるいは、私たちの思い込みが、わたしたちの心を頑なにしてしまい、イエス・キリストのまことの姿を曇らせてしまうことがあります。

 せっかく聖書を通してキリストの偉大さを目の当たりにしたとしても、それがわたしたちの支えにならないとしたら、それはとても残念なことです。しかし、イエス・キリストはそういうわたしたちの弱さをも知って、私たちの傍を通り過ぎようとなさり、その信仰の足りなさをも気がつかせてくださるお方です。

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