聖書を開こう 2018年3月15日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  待ち望む忍耐(マルコ4:26-29)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教とは簡単に言えば何を信じる宗教ですか、と質問されたら、どんな答えがあるでしょうか。ある人はこう答えるかもしれません。

 聖書があれだけ分厚いのだから、簡単になど答えられるものではない、と。まして、聖書について研究してきた書物を図書館で探してみればわかる通り、聖書の何千倍もの書物をもってしても表しきれないのですから、これを簡単に答えてほしいという質問自体が間違っている、と。

 確かにもっともな答えのようにも聞こえます。しかし、そうすると、ほとんどのキリスト教徒は自分でもわからないことを信じているということになってしまいます。さすがに、そんなことはないでしょう。

 別な人はこう答えるでしょう。それは、神から遣わされたキリストによって救いがもたらされると信じる宗教だ、と。そして、その場合、ナザレのイエスこそが、そのキリストであると主張する宗教だ、と。

 確かに、それも正しい答えのように聞こえます。しかし、救いとは何か、ということが明確にされなければ、期待外れのキリスト教になってしまうかもしれません。ある人は、この世で病気や貧困や争いがないことが救いだと信じてキリスト教に入信したとしたら、それば期待外れのものになってしまうでしょう。実際、病気や貧困や戦争と平和の問題は、キリストの時代からほとんど解決されていないからです。

 さらに別の人は、こう答えるかもしれません。キリスト教の救いとは、この地上にあって罪の赦しを聞くことだ、と。身代わりとなったイエス・キリストが罪を背負って十字架におかかりになり、信じる者たちの罪の赦しを勝ち取ってくださったのだ、と。そう信じるのがキリスト教である。こういう人もいるでしょう。

 確かに聖書にはそう書かれています。しかし、聖書には、キリストの再臨に対するあつい期待感もしるされていますから、ただ、キリストの十字架と復活を振り返る宗教ではなさそうです。キリストの再臨とともにもたらされる新しい天、新しい地、神の国の到来と完成を期待する宗教、これがキリスト教だ、といえるかもしれません。

 しかし、そうだとすると、キリスト再臨の間まで、言い換えれば、神の国が完成されるその時までの間、キリスト教会は何をして過ごすのでしょう。その答えが、イエス・キリストがお語りになったたとえ話の中に記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 4章26節〜29節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 イエス・キリストは神の国についてお語りになるときに、またしても、農作業に携わる農夫の生活を引き合いに出されます。もちろん、現代の農業をここに持ち込んで議論することはできません。あくまでもイエス・キリストの時代の農業をモチーフにした話です。ただ、基本的には現代の農業と共通した部分がありますから、今の私たちにとっても納得のいく話です。

 農作業では、農夫のできることは限られています。もちろん、農作業にはなすべきことはたくさんあるでしょう。しかし、種をまいてから、種が芽を出し成長するまでの間、農夫の思った通りに自分の力でできることは限られています。天候に左右されがちなのは、今の農業でもおなじです。

 イエス・キリストのたとえ話では、種をまいた後に農夫がしていることは、夜昼寝起きをすることだけです。農夫に対して失礼なたとえ話のように聞こえますが、実際、徹夜で蒔かれた種を見張っていても、農夫には芽を出すスピードを変えることはできません。間を飛ばすことも、収穫の時期を早めることもできません。農夫といえども、そこは植物の成長に任せるよりほかはありません。じれったいなどと思ったら、農夫など務まりません。ここで、面倒くさくなって農作業を放棄してしまったら、収穫のチャンスを逃してしまいます。

 農夫にできることは、忍耐強く植物の成長を待って、刈入れの時が来るのを期待することです。

 この譬え話を理解するためには、当時の時代的な背景を知っておく必要があります。福音書の中にも、しばしば見られる通り、「神の国に入るにはどのようにしたらよいのか」という関心が人々にはありました。

 その答えには少なくとも二つの代表的な考え方があったと言われています。一つは、ファリサイ派を代表とする考え方で、モーセの律法を遵守することで神の国を来たらせることができるとする考え方です。そこでは、いかにモーセの律法を完全に全うするのかということに、全神経が注がれていました。

 もう一つの代表的な考え方は、熱心党あるいはゼロータイと呼ばれる人たちのグループです。この人たちはファリサイ派の人たちと同じようにモーセの律法に熱心な人たちでしたが、もっと極端な考え方を抱くようになりました。神の律法を守るためには、武力も闘争も辞さないという考え方です。特にローマ帝国の支配下にあった時代には、その行動がテロリズムへと発展し、ついにはユダヤ・ローマ戦争を推進する精神的な支えにもなっていく思想です。

 この二つの代表的な神の国に対する考え方に共通しているのは、結局、神の国は人間の努力や力によって引き寄せることができると言う考えです。こういう考えを持った人たちがいる中で、イエス・キリストは神の国についてお語りになっているのです。

 そこでは、明らかに人間の努力が排除されています。人間が何かをしたからといって、神の国の完成を早めたりできるようなものではない、という強いメッセージが込められています。収穫を期待する農夫のように、ただ忍耐して待つことが求められています。

 後に主の兄弟ヤコブは、その手紙の中でこんなことを書いています。

 「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」(ヤコブ5:7-8)。

 イエス・キリストの時代から40年ほどたった時代に、神の国を自分たちの力によって引き寄せることができると考えた人々によって、ユダヤ戦争が起こされました。しかし、残念ながらその結果は神の国を引き寄せるどころか、民族の衰退をもたらせてしまいました。

 イエス・キリストは主の祈りを弟子たちに教えられましたが、その中でも、神の国についてこう祈るようにと勧めています。

 「御国を来たらせたまえ」

 神の国は私たちがもたらすのではなく、神の恵みと力とによって来たらせていただくものなのです。

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