聖書を開こう 2018年2月22日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  イエスの母、イエスの兄弟姉妹とは誰か(マルコ3:31-35)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストには実の兄弟姉妹がいたことが知られています。マルコによる福音書には、弟たちの名前が記されています。ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの4人が具体的な名前で記されています(マルコ6:3)。この中で、特に名前が知られているのはヤコブで、後にエルサレムの教会で中心的な役割を果たします(ガラテヤ1:19)。妹たちの名前は残念ながら具体的には記されていませんが、妹たちがいたことは福音書の聖書の記述から知られています。

 もっとも、聖書に出てくる「兄弟姉妹」という単語が、文字通りの兄弟姉妹、つまりマリヤの子供たちで、イエス・キリストとは血のつながった兄弟姉妹を指すとする考えには、古くから反対する立場の伝統もキリスト教会にはあります。というのは、「兄弟姉妹」をあらわすヘブライ語の単語には、文字通りの「兄弟姉妹」よりも、もっと広い従弟などの血縁関係を指す場合もあるからです。カトリック教会ではこの立場が古くからとられてきました。それは単に辞書的な単語の議論というよりは、カトリック教会の重要な教義にも関係した議論になっています。

 それに対してプロテスタント教会では、「兄弟姉妹」の意味を文字通りの意味にとって、イエス・キリストが生まれた後、文字通りの弟や妹が生まれたと考えています。

 きょう取り上げる個所には、イエスの母マリヤとともに「兄弟姉妹たち」がイエスのもとにやってきた話が出てきます。それと同時に、きょうの個所にはイエス・キリストの口から、ご自分のほんとうの家族とはだれなのか、という言葉が出てきます。

 イエス・キリストに文字通りの弟や妹がいたのかということは、興味ある話題かもしれませんが、そのことよりももっと大切なことをイエス・キリストはわたしたちに問いかけています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 3章31節〜35節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。

 きょうの話は、先週学んだ個所と深く結びついています。イエスの母マリアとイエスの兄弟姉妹たちがやってきたのは、イエス・キリストについての悪い噂を耳にしたからでした。穏やかな訪問というよりは、「取り押さえに来た」(マルコ3:21)というほどのものでした。

 先週、取り上げた通り、自分の身内の者が「気が変になっている」とか「悪霊の頭に取りつかれている」などと噂されているのを耳にしたら、いても立ってもいられない気持ちになるのは当然のことでしょう。

 しかし、取り押さえにきたといっても、さすがに捜査官が土足で家に上がり込むような手荒な真似はしません。穏やかに人をやって、息子イエスを呼ばせます。「群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」とありましたから、家の中に入るのもはばかられるくらい、わさわさとした状況だったのかもしれません。

 使いの者が母マリアと兄弟たちの訪問を伝えると、イエス・キリストから意外な反応が返ってきます。それは、この訪問を歓迎するのでもなく、そうかといって、まったく退けるものでもありません。むしろ、イエス・キリストはこの機会を巧みにとらえて、その場に居合わせた周りの者たちに大切なことがらを教えます。

 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 イエス・キリストはなぜこのことをおっしゃったのでしょうか。自分を取り押さえにやってきた母親や兄弟たちを、神の御心に反する者たちだと非難するために、そうおっしゃったのでしょうか。

 そうではないでしょう。そもそもこの者たちの訪問の理由はイエス・キリストには伝えられていません。使いの者はイエスの母親と兄弟たちが外でイエスを捜しているということしか告げていません。

 もちろん、イエス・キリストは全知全能の神ですから、訪問の真の理由を知っていたとも考えられます。もしそうであるなら、全知全能の神らしく、こんな回りくどいことをしなくても、取り押さえに来る者たちの手を逃れることはいくらでもできたでしょう。

 いずれにしても、ここに記されている言葉の聞き手は、やってきた母親や兄弟たちではありません。これ見よがしに、この者たちに嫌味を言っているわけでは決してありません。聞き手は、この場に居合わせた周りの者たちです。弟子たちを含め、イエスの周りに集まってきた群衆たちに語られた言葉です。

 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とあえて問うておられるイエス・キリストの言葉に誰もが耳を立てて、その答えを聴こうとしたことでしょう。使いの者が「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らせて来たのですから、常識的な答えは誰もが知っています。しかし、答がそれでないことは、あえてこのような質問を問うておられるイエス・キリストの言葉から推測がつきます。しかし、では答えは何かと問われれば、誰もそれに答えることはできません。次に出てくるキリストの言葉を誰もが待っています。

 その時、おもむろにキリストがおっしゃった答えはこうでした。

 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」

 この言葉を耳にしたとき、群衆たちの驚きはどれほどだったことでしょう。家の外に立って待っている人たちではなく、「ここにいる」とおっしゃって、ここにいる者たちこそ、わたしの母、わたしの兄弟、わたしの姉妹なのだとおっしゃってくださっているからです。名前も知られていないこの群衆たちを、そう呼んでくださるキリストの言葉に、群衆たちがどれほど力づけられたことでしょう。

 これらの群衆の中には、人としてまともに扱われてこなかった人たちもいたことでしょう。その人たちに向って「あなたはわたしの母親だ」「わたしの兄弟だ」「わたしの姉妹だ」という言葉が、どれほどに慰めとなったことでしょう。

 しかし、それに続けて、厳しいこともおっしゃっています。

 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 これらの群衆の中には神の御心を行えなかったからこそ、罪人と呼ばれていた人もいたことでしょう。イエス・キリストは皮肉を言っているのでしょうか。そうではありません。

 確かに、神の御心を完璧に守れる人など一人もいません。しかし、神の御心に完全に添い行くことができない自分を認め、救い主に自分自身を明け渡すことはできないことではありません。少なくとも、イエス・キリストの周りに集まってた人々は、真剣に罪の悲惨からの救いを求めてきた人たちです。キリストのうちにのみ救いを求めるならば、だれでもキリストの家族として迎え入れてもらえるのです。

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