聖書を開こう 2018年2月1日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  イエスの評判(マルコ3:7-12)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教の宣教活動を何かにたとえて表現するときに、しばしば「戦い」に関係した表現が用いられます。

 パウロはキリスト教の宣教に当たる人々を「キリスト・イエスの立派な兵士」(2テモ2:3)と呼んだり、福音の宣教のために共に労する仲間を「戦友」(フィリピ2:25)にたとえたりしています。戦争に行ったことがないわたしには、「兵士」や「戦友」といった比ゆ的な表現はピンと来ませんが、キリスト教の宣教が戦いだというのは実感できます。

 今日お読みする個所にはイエス・キリストがガリラヤで行った神の国の宣教の業が急速に広がっていった様子が記されています。しかし、それは勝利の拡大とばかりは言い切れない面もあります。戦線の拡大とともに、敵対する者たちとの衝突も避けられません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 3章7節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 これまで学んできた個所を、「神の国の宣教の拡大と人々の反応」という点に着目して振り返って見ると、はっきりとした筋道を読み取ることができます。

 イエス・キリストによる神の国の宣教は、1章14節から始まります。そこには、ヨハネが逮捕され投獄された後に、イエス・キリストはガリラヤへ行って宣教を始められたと記されています。

 この宣教の業は最初ガリラヤ湖畔の小さな町カファルナウムから始まって、たちどころに町中の人々が集まるほどの成果をあげました。それからすぐにも周辺の町や村へと宣教の業が拡大され、マルコによる福音書は1章の終わりをこう締めくくります。

 「それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」

 公然と町に入ることができないほどに活動が知れ渡り、町の外にいてさえ、人々があちこちから集まって来るほどです。

 続いて2章にはいると、イエス・キリストの働きが熱狂的な歓迎を受ける一方で、その働きを快く思わない人々の抵抗に出会ったことが記されます。特にファリサイ派の人々や律法学者たちによって、キリストの行動や教えが逐一調査される様子が描かれます。

 彼らによれば、イエスは「神を冒涜する者」、「罪人と食事をする仲間」、「断食を守らない者」、「安息日の掟を破る者」…そうしたレッテルが次々に貼られていきます。

 そして、ついに先週学んだ個所では、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が手を組んでイエスを殺そうと相談が始まる様子が描かれます。イエス・キリストの活動が始まってまだ間もないときに、早くもキリストを殺してしまおうという計画が立てられるとは、とても驚くべきことです。しかも、ファリサイ派とヘロデ派というのは立場的におおよそ結びつかない仲にありながら、キリストの活動を阻止すると言う点で利害が一致したことにはいっそうの驚きを覚えます。

 今日お読みした聖書の個所は、そうしたこれまでの宣教活動の成果をまとめるような形で、イエス・キリストの活動を記します。

 さて、今日の個所は「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」と言う言葉で始まります。これは、言うまでもなく、その直前のところで、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が手を組んでイエス殺害の計画を立て始めたという流れからつながっている文章です。

 しかし、そういう読み方だけをすると、キリストは敵の前をすごすごと立ち去ってしまったと言う印象を受けるかもしれません。けれども、これまでのところを注意深く読むと、イエス・キリストはどんなときにも群衆たちを離れて一人になる時間を作ろうとされていたことがわかります。

 たとえば、カファルナウムでの安息日を過ごされた後、町じゅうの人々が病気を癒してもらおうとイエスのもとに集まりますが、そのときにも、イエス・キリストはあえて朝早く人里離れたところへ出かけて行かれました。

 また、中風をわずらう人を癒し、民衆たちが驚いて神を賛美せずにはいられなかったほどの好評を博した時にも、イエス・キリストは同じように湖のほとりに出て行かれたとあります。

 ですから、イエス・キリストが湖のほとりへ出て行かれるのは、ファリサイ派の人々の暗殺計画を知って退いたと言う消極的なことばかりとは言い切れません。好評のときも、反感を買うときも、いつも群衆から一歩退いて神と語り合う時間を大切にされたイエス・キリストの姿をここに読み取らなければなりません。

 ところが、今までもそうでしたが、イエス・キリストが行かれるところ、どこにでも大勢の人々が押し寄せて来ます。きょうの個所にはガリラヤ地方を超えて、ユダヤ、エルサレムといった近隣の地方はもとより、北はティルスやシドンと言った地中海沿岸の町々、南はイドマヤ、そして、ヨルダン川を渡った東の地域からも人々が押し寄せてくる様子が描かれます。この様子は、ファリサイ派の人々がイエスのもとを離れて、イエスを殺そうと計画を立てる姿と対照的です。

 もちろんそうした民衆がイエス・キリストに対して特別な信仰をもっていたのかというと、そうとは言い切れないかもしれません。後に明らかになるように、群衆の大半はキリストが十字架上で処刑されることに付和雷同してしまいます。

 しかし、病の癒しを求めて集まる群衆は、今日のわたしたちが病気のときに医者に行くのとは違った気持ちを持っていたことは明らかです。そこには、癒されない病から来るあらゆる苦しみや魂の渇きを背負った人々が集まっていたはずです。病であるために人間としての生きる希望や人間としての尊厳さを見失いかけていた人々です。体ばかりではなく心も魂も癒されることを願っている人々です。イエス・キリストはこうした癒されたいと願う人々を大切にされました。

 ところで、今日の個所は、汚れた霊どもにご自分のことを言いふらさないようにと厳しく戒められるイエスの姿で話が終っています。すでに、1章34節でも同じ様にイエス・キリストは悪霊どもにご自分のことを言いふらさないようにと戒めています。イエス・キリストが願っていることは、人々が悪霊の証言を聞いて信仰をもつことではありません。いえ、悪霊の証言から信仰など生まれるはずもありません。悪霊が証言するイエス・キリストは、決して信仰の対象ではありません。悪霊どもは、イエス・キリストを見て「あなたは神の子だ」とおののきひれ伏しますが、決してキリストに従っていこうとはしません。
 イエス・キリストは、福音書を通して、まっすぐにご自分を見詰めるようにとわたしたちを招いてくださっています。

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