聖書を開こう 2017年11月2日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  わたしの愛する子、わたしの心に適う者(マルコ1:9-11)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どの物語でもそうですが、主人公が登場する場面は、印象的に描かれます。今日取り上げる箇所は、イエス・キリストの登場場面です。このお方ならではの印象的な場面が描かれる一方で、なぜそうなのだろうという疑問を読む者に投げかけています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 1章9節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 マルコによる福音書の最初の一行に、この福音書の中心となるお方について、「神の子イエス・キリスト」と紹介されていました。

 「神の子」という称号も「キリスト」という称号も、その当時の人々にとっては、特別な称号でした。少なくとも、「神の子」という称号は、どの世界に行っても、そう呼ばれる人物は、偉大であることが期待されます。

 何の知識もなくこの福音書を初めて手にした人にとっては、どんな人が登場するのだろうと、興味と期待と好奇心で、早く先を読みたい気持ちになるでしょう。しかも、その人物が登場する前に、先駆けとなる人がわざわざ遣わされてきて、後から登場するその人のために道を整えるというのですから、ますますその先を知りたい気持ちでいっぱいになります。

 さらに、そこへもってきて、先駆者の語るアナウンスは、いっそう期待を高めます。

 「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 こうまで紹介されたイエス・キリストが、きょうの場面でいよいよ登場します。

 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

 「神の子」と呼ばれるべきお方が、「ガリラヤのナザレから来た」という時点で、当時の多くのユダヤ人読者には失望が走ったかもしれません。というのは、当時のガリラヤには、あまりよいイメージがなかったようだからです。

 当時のユダヤ最高法院の議員の言葉が、ヨハネによる福音書に記されていますが、こう語っています。

 「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」(ヨハネ7:52)

 メシアどころか、預言者の一人も出てこないという、ガリラヤ地方についての期待のなさが如実に表れています。

 のちにキリストの弟子のひとりとなったナタナエルという人は、同じヨハネによる福音書の中でこう言っています。

 「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)

 当時の人々が抱いていたガリラヤのナザレについてのイメージはこの程度のものでした。

 そういうイメージを抱かれている中で、「神の子」であり「わたしよりも優れたお方」と紹介される人物が、ガリラヤの田舎からやってきたと聞いて、胸を躍らすような思いになどなれなかったことでしょう。

 仮に、この福音書の読者たちの大半が、そうしたユダヤ人たちの事情を知らないとしても、もう一つの躓きがあります。それは、「わたしよりも優れた方」と洗礼者ヨハネによって紹介されたお方が、ヨハネのもとに出向き、しかも、ヨハネから洗礼を受けるためにやってきた、というのですから、「どうして?」「なんのために?」という疑問が頭をよぎります。

 洗礼者ヨハネよりも優れたお方であり、聖霊による洗礼を授けることができるお方が、どうして、罪の赦しを得させる洗礼を、ヨハネから受けなければならなかったのでしょう。

 マタイによる福音書には、イエス・キリスト自ら、この疑問に答えてこうおっしゃっています。

 「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)

 しかし、ここでも、イエス・キリストがおっしゃっていることは、わたしたちの疑問にすべて答えているわけではありません。ただ、ヨハネのもとで洗礼を受けることが、正しく、ふさわしいことだということだけは明らかにされています。

 そもそも、このお方は、自分が来たのは「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」(マルコ10:45)と、後におっしゃっています。そういう意味では、ヨハネから洗礼を受けることよって、罪ある多くの者の代表として、多くの人に代わって、真の悔い改めを言い表した、と理解することもできます。

 イエス・キリストこそ、罪人の側に立ってくださり、わたしたち罪人に求められているすべてのことを満たしてくださるお方であるということができます。

 しかし、このお方は同時に、この福音書の最初から紹介されているとおり、「神の子」でもあられるお方です。その証拠に、ヨハネから洗礼を受けた多くの人々には起らなかった特別の出来事が起りました。

 一つは、天が裂けて神の霊が鳩のように御自分に降ってきた、ということ。それに加えてもう一つは、天からの声が次のように語ったことです。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

 罪人と同じように、いえ、罪人を代表するかのように、罪の赦しを得させる洗礼をお受けになったイエス・キリストを、父なる神が「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んでくださっているのです。

 この場合、ヨハネの洗礼を受けて、初めて「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」となったという意味ではないでしょう。

 そうではなく、罪人の側に立っているこの人こそ、永遠からの神の子、御心に適う者なのです。聖書が示す救い主とは、そういうお方です。

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