聖書を開こう 2017年4月6日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  宝を納めた土の器(2コリント4:7-15)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 何か新しい商品を売るとき、人はいろいろな工夫を凝らして、その商品がよく売れるようにと努力します。というのも、この世の人は、たとえその商品がよいものであったとしても、必ずしも売れるわけではないことをよく知っているからです。

 まずはコマーシャルを作って、その商品の存在を広く知れ渡るようにします。場合によっては、試しに使ってもらって、その商品に親しんでもらうこともあります。使ってもらった人に口コミでその商品の良さを広めてもらうこともあります。時には、お客さんが来るのを待っているばかりではなく、売り込みに出かけるということもあるでしょう。それでも売れなければ、値引きをしたり、おまけをつけたりして、思わず買いたい気持ちにさせます。ものを売るためには、それくらい一生懸命に努力をします。

 福音宣教をそれと比べるのは不謹慎かもしれませんが、この世の人でさえ、それくらいの努力を惜しまないのであれば、福音宣教のための工夫や努力に遜色があってはならないと思います。しかし、そうであったとしても、はやりこの世のものを売るのと、福音を伝えるのとでは、根本的に違う点があります。それは、福音の宣教は、根本的には神の働きに負うところが大きいからです。もちろん、福音宣教の停滞を、神のせいにするために、こう言っているわけではありません。そうではなく、あらゆる人間的な努力を積み重ねたとしても、信仰を人の心のうちに起こすことすら、人間にはできないということです。しかし、その無力な者に、神はあえて福音の宣教の働きを委ねておられるのです。このことを自覚することこそ、福音の宣教を委ねられた者には大切です。

 今日取り上げる個所でパウロは、福音宣教を委ねられた者の弱さについて触れると同時に、その弱い器を通して力強く神の栄光が現れることを語っています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章7節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

 パウロは今まで、新しい契約に仕える者、福音の宣教を推し進める使徒職の栄光について書いてきました。ここから一転して、パウロは自分自身の弱さや、直面する苦難について語ります。

 福音宣教を携える自分を、パウロは「土の器」であると述べます。福音を宝に例えるのであれば、その宝を入れる器は、当然、それにふさわしい高貴な器であるはずです。しかし、パウロは福音を携える者を「土の器」と呼んで、宝である福音と、それを携える人間とを対照的に描いています。

 これは決して自分を卑下してそう呼んでいるのではありません。人間が土から造られた存在であるという意味で、確かに人間は土の器にすぎません。そして、この「土の器」という表現には、土の器が持っている弱さや脆さも含まれています。弱く脆い器であるがゆえに、価値のないものという意味も含まれています。どんなに立派に見える人間も、土くれから造られ、やがては土に帰するほかない、はかない存在です。

 しかし、パウロはそれを決して恥ずべきこととして書いているわけではありません。そうではなく、ここにこそ神の力と栄光が表れていると、そのことを指摘しています。

 そこで、パウロは自分が福音を宣べ伝えるにあたって直面してきた様々な苦難について語ります。ここには具体的な言葉では語られませんが、ある時には四方から苦しめられる経験、ある時には途方に暮れる経験、そして、またある時には虐げられ、打倒される経験をしてきました。

 この手紙の11章にはもっと具体的な言葉で、パウロが経験してきた苦難について書き記されています。そこにはこう書かれています。

 「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(2コリント11:24-27)

 しかも、これはほんの一例にすぎません。土の器にすぎない人間であれば、とっくに壊れたとしてもおかしくはない状況です。

 これだけの苦しみの中で、行き詰らず、失望せず、滅ぼされずに来れたのは、神の偉大な力が、パウロとともにあったからにほかなりません。これは決してパウロの苦労話ではありません。そうではなく、神の力の絶大さを語るパウロの証しです。

 福音宣教に携わるパウロは、自分の経験してきた苦難についてこう述べます。

 「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」

 パウロが背負った苦難のネガティブな側面は、「いつもイエスの死を体にまとっている」こと、「絶えずイエスのために死にさらされて」いることとして描かれています。しかし、この苦難には積極的な意味がありました。それは、「イエスの命がこの体に現れる」ということでした。キリストが十字架の苦難を通して、復活されたように、パウロは自分自身の苦難をキリストの苦難と重ね合わせ、ここにキリストの復活の命の希望を見出したのです。

 創世記に記された、罪を犯したアダムに対する宣告は、こうでした。

 「お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。 お前がそこから取られた土に。 塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)

 しかし、パウロは、苦悩に直面する土の器である自分に、キリストの命の希望を見出したのです。そればかりか、この福音の力が、それを聴いてあずかる者のうちに確実に働くことを確信しているのです。

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