聖書を開こう 2017年1月5日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: わたしたちの希望(2ペトロ3:8-13)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 クリスチャンの生活は、一方ではこの世を離れてあるわけではありません。この世の中で生き、この世と関わりながら生きています。そして、この世に生きている人を、誰であれ神に造られた一人として、心から重んじる生き方です。

 しかし、他方では、この世に働く神に逆らう原理に同化してしまわない断固とした生き方です。同化しないというばかりではなく、激しく抵抗さえする生き方です。もし、御心であるならば、一刻も早く神の国が完成し、神に逆らう原理が一日でも早く一掃されることを願う生き方です。もちろん、この世の誘惑に負ける弱さも否定はできません。しかし、それでも、この世に絶対の価値を置くような生き方ではありません。

 こういう信仰を持った人たちの生き方は、そうでない人たちにとっては理解しがたいものであるかもしれません。そして、しばしば、そのような生き方は、あざけりの対象にもなります。それはある意味、仕方のないことです。

 しかし、このような信仰的な生き方を否定する考えが、内部から起こってきたとしたら、どうでしょう。これは教会にとって大きな危機です。ペトロを悩ましていた偽教師たちの問題は、まさに内側から出てきて、キリスト教信仰を否定し、まじめな信仰者たちの生き方をあざ笑うものです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 3章8節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、1日は千年のようで、千年は1日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

 主の来臨が遅い、という指摘に対して、ペトロは信仰者たちが動揺しないように、この現実をどうとらえるべきか、丁寧に解き明かしています。

 第一にペトロに挙げていることは、人間にとっての1日と、神にとっての1日とは同じではないということです。命に限りのある人間にとっては、確かに1日の違いはとても大きなものがあります。それが1年2年と積み重なれば、その違いは人間にとってますます大きなものです。

 しかし、神にとっては、何世代も人間が世代交代したとしても、その始まりも終わりも見届けることができるのですから、神にとっての時間は、人間が理解し実感している時間とは、まったく異なるものです。

 自分が生きている間に起こらないことは、これからも起こらないと思い込むのが人間です。ペトロがこの手紙を書いた時代には、すでに信仰を持ちながら、しかし、キリストの再臨の前に世を去ってしまう信徒たちもいた時代です。パウロがテサロニケの信徒たちに宛てて手紙を書いた時代でさえ、すでにそのように主の来臨を待たずに世を去ってしまう信徒のことが話題となっています。

 しかし、そのようなことが起こったとしても、それは主の約束が遅れたり、果たされないとうことではありません。予定や計画の全体を知らない人間には、そうとしか思えないとしても、全体をご存知の神には少しも遅れているのでもなければ、実現しない空虚なことがらでもありません。

 卑近な例を言えば、子供を連れて、出かけたとします。目的地までの距離や、到着時間を把握していない子供は、何度も何度も、「いつつくの?」「まだなの?」と聞いてきます。時間がかかればかかるほど、遠くであれば遠いほど、子供は我慢できなくなってしまいます。

 しかし、大人にとってはそうではありません。全体を把握しているので、3日かかろうが4日かかろうが、目的地に永久に着かないなどという絶望感を抱くことは決してありません。

 「再臨は遅い」という疑いに対して、ペトロが挙げている第二の点は、主の憐みをそこに見出すことの大切さです。もとより、神はアダムとエバの堕落以来、忍耐強く人々に悔い改めを促してきました。主の憐みがなければ、ノアの洪水よりも、バベルの塔の崩壊よりももっと前に終末の世界が到来したはずです。イエス・キリストの再臨は遅れているのではなく、この再臨のキリストを待っている期間こそ、そこに神の憐み深さを見出し、救いの福音が一人でも多くの人たちに宣べ伝えられるようにと、心から神に仕えて生きる期間なのです。そういう期間を神は憐み深くも与えてくださっているのです。

 しかし、ペトロが指摘する第三の点にも心を留める必要があります。第一の指摘も第二の指摘も、主の来臨が遅いと感じられることを、どう理解すべきか、言い換えれば、ある意味では、遅いと感じていることが前提になっている発言です。しかし、ペトロが言いたいことは、決して、この状態があと千年続くという意味でもなければ、全員の悔い改めが終わるまで、再臨は来ないということでもありません。まさに、主の日は、盗人のように、思いがけないときに突然襲ってくるということです。そのことへの心の備えが大切です。それがペトロが指摘する第三の点です。主の日の到来は遅れているのでもなければ、延期になっているのでもありません。突然到来するところにその特徴があるのです。そのことを忘れて、安穏とした日々を送ることはできません。

 ペトロは最後に、主の来臨の時まで、主イエスを信じる者としてどのように過ごすべきかを読者に勧めています。

 それは信仰の放棄ではなく、疑いに惑わされることなく、いっそう聖なる信心深い生活を送るようにということです。偽教師たちの腐敗した生活について、ペトロはこれまで語ってきましたが、そのような生き方に倣うのではなく、神が求めておられる清い生活を送ることです。

 そのような生き方を支えるものは、結局のところ、神の約束に期待し、その約束が成就する日を心から待ち望むことです。神の約束が必ず成ると信じる希望が、この地上での信仰生活を有意義で豊かなものにしていくのです。

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