聖書を開こう 2016年10月6日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 若い人たちへ(1ペトロ5:5)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 いつまでも自分が若者だと思っていましたが、気がつけば、数えの年で還暦を迎えていました。気持ちだけは若いつもりでも、本物の若者から見れば、きっと気持ちもそんなに若くもないに違いありません。

 今、改めて、若者とは何か、と問うてみると、ひとくくりで、「これが若者だ」という特徴をあげてみるのは中々難しいように思います。時代や文化によって若者の姿は決して同じではないからです。

 そもそも年齢的にどこまでが若者なのか、それすら時代によって違うでしょう。

 今の時代の30代前半は十分若者です。しかし、キリストの時代の30代といえば、生きた年月は同じでも、もうすでに人生の終わりを身近に感じる年齢です。きっと意識も違っていたことでしょう。

 きょう取り上げる箇所には「若者」に対する勧めがなされています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 5章5節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。

 先週「長老たち」に対する勧めを取り上げました。そのとき、ここで使われている「長老」という言葉が教会の特別な役職としての「長老」を指しているのか、それとも一般的な意味での「お年寄り」を指しているのか、単語そのものにはどちらの意味もありうる、ということをお話ししました。

 実は今日のところにも同じ問題があります。一つは、ここで言われている「若者」が、文字通りの「若者」なのか、それとも、「長老」に対する言葉として、何らかの意味で教会の中での役割が与えられた人たちを指しているのか、という問題です。

 けれども、実際には「若者」という言葉が特定の職務を指すという明確な証拠があるわけではありません。ただ、使徒言行録5章6節で、亡くなったアナニアの遺体を運び出した人々が「若者たち」と呼ばれていることから、この人たちは文字通りの「若者」ではなく、ある任務を帯びた人たちであったと推測されているにすぎません。

 そして、同じ使徒言行録の6章には、ステファノをはじめ七人の者が、やもめたちの食事の世話をするために選ばれたことが記されています。今日でいう執事の働きです。この人たちこそ、「若者たち」と呼ばれていた人たちではなかったかと言われていますが、それも推測にすぎません。

 やはり、新約聖書に出てくる「若者」という言葉は、長老職に対するような、特別な働きを指す言葉ではなく、文字通りの「若者」と理解してよいと思います。

 先ほど引用した使徒言行録5章でアナニアの遺体を運び出した人たちは「若者たち」と呼ばれてはいますが、そのすぐ後で、アナニアの妻サフィラの遺体を運び出した人たちには「青年たち」という別の呼び名が与えられています。同じ働きをしていながら別の呼び名で呼ばれるということは、その働きが職務というほど一定した名前をまだもっていなかったということだと思います。

 そして、もう一つの問題は、5節に出てくる「長老」という言葉が、この場合、「若者」に対して「年寄」をさす言葉なのか、それとも、前の節からの続きとして、教会の役職としての「長老」と翻訳するのがよいのか、という問題があります。

 なるほど、ここでは一般的な意味での「若者」に対して「年寄」という意味であるようにも取れなくはありません。しかし、直前の文脈で、役職としての「長老」の意味にその言葉が使われているのですから、特にここに限って一般的な意味での「お年寄り」という意味でその言葉を使ったとは考えられません。

 さて、ペトロは若い人たちに対して、長老に従うようにと命じています。

 「若い」ということは、ある意味で、将来の可能性が限りなくあるように思われます。実際、いろいろな可能性を秘めています。そして、何よりも、若者には既成概念でものを見ないという柔軟性があります。そのどちらもいい意味で若者の特色です。

 しかし、その特色は用い方を誤れば、可能性がより少なくなってしまった年長者を軽蔑し、既成概念でしかものを見るることができない年寄りたちを窮屈に感じてしまいがちです。そして、やがてはそのことが高慢へと発展しがちです。

 もちろん、次の時代を担う若者たちが、前の時代を乗り越えて発展させてくれることはとてもうれしいことです。また、そうあってほしいと心からそう願います。

 けれども、何の実も伴わない、高慢な思いだけが先行するのであれば、若者が持っている特色も台無しです。

 ペトロはそのような高慢に陥ることがないようにと懸念しています。とくに、その矛先が長老たちへと向かうとすれば、キリストにある教会の一致が揺らぎかねません。

 しかし、ペトロは若者たちに注意を促す前に、前回学んだ通り、まず長老たちに、群れをどう養うのか、その模範となるようにと勧めていました。一方的に若者を抑え込もうとしているのでは決してありません。長老たちが群れに仕えるように、同じように、若者たちには長老たちに従うようにと勧めています。

 ペトロが願っていることは、どちらかが他方を支配する、支配と服従の関係ではありません。仕える者と従うものが、互いに自分よりも相手を高く評価する生きかたです。教会の中の人間関係で大切なことは、互いに謙遜であること、キリストだけが主であって、だれも、このキリストの座に着こうと願わないことです。キリストにあって謙遜に仕え合うこと、このことは長老にも若者にも大切なことです。

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