聖書を開こう 2016年2月4日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神は貧しい人を選ばれた(ヤコブ2:5-8)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会の中には差別がない、と思われがちです。教会に対してそのような期待があるとすれば、それを裏切ることはできません。しかし、現実には、前回の学びでも取り上げたとおり、教会の中にも差別があることは否定できません。

 けれども、教会がこの世の社会と何ら変わることがないのか、というとそうではありません。少なくとも教会の中には、差別はいけないという意識があり、差別を禁じる教えがあり、また、なぜ差別がいけないのかという根拠を示すことができる思想があるからです。しかし、これだけ揃っていても、なお、教会の中から差別を根絶することができないのですから、人間のもっている罪に傾く傾向がどれほど大きなものであるかということです。

 きょうもまたヤコブの手紙から差別についての教えを学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 2章5節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。

 「差別」と一言で言っても、その内容は様々です。人種の違いからくる差別、男女の性の違いからくる差別、身体的な機能の違いからくる差別、あるいはヤコブの手紙で取り上げられているような、貧富の差からくる差別など様々です。様々な違いが差別を生み出す原因となっていますが、ほとんどのものは、違いそのものをなくすことができません。実際、意識を変えなければ、無くならないのが差別です。

 さて、ヤコブの手紙が問題としているのは、特に貧富の差からくる差別です。そもそも、なぜ貧しい者が疎まれ、富んだ者が大切に扱われるのでしょうか。もちろん、この両者が現実に存在していたとしても、自分の生活の圏内に入ってきて、関わりを持つような事態にならなければ、何事も起こらないでしょう。しかし、いったん、自分の生活圏にこの両者が入ってくると、事態は変わります。なぜ貧しい者が疎まれ、富んだ者が大切に扱われるのでしょうか。

 まず、ここには前提となっているある考えがあるように思います。それは、貧困は怠惰からくるもの、富は勤勉からくるもの、という前提です。これは全くの間違いとは言えません。確かに怠惰な暮らしをしていれば、豊かな生活から、どんどん遠ざかっていきます。

 もし、貧困の原因が怠惰だけだとすれば、貧しい者が疎まれたり蔑まれたりするのは、一理あるといえるかもしれません。しかし、怠惰が原因で貧困に陥るのは、貧困の原因のほんの一部にしか過ぎません。働きたくても働くことができないということは、ざらにあるからです。それは、単に機会に恵まれないということもありますが、もって生まれた身体的な能力や才能に見合った仕事が限られているということもあります。あるいは、面倒を見なければならない他の人がいるために、自分の時間をそのために使わなければならなくて、働くことができない、ということもあるでしょう。

 しかし、多くの場合、なぜその人が貧しいのか、その理由を考えることはほとんどありません。むしろ貧困の理由はどうあれ、自分とかかわることで、自分への負担が大きくなることを恐れて、疎んじてしまうのでしょう。あるいは、たとえ自分に対して負担を求めるわけではないにしても、疎んじてしまうのは、自分も仲間と見られるのが嫌だからでしょう。もちろん、そこにはすでに貧困に対する軽蔑的な思いがあるからです。その軽蔑的な思いは、先ほども触れた、貧困の原因に対するある種の思い込みも原因していますが、しかし、貧しい身なりや貧困ゆえの小汚さに対する生理的な嫌悪感が、軽蔑へとつながっているという面もあるでしょう。

 この状況に対して、ヤコブは、「神は世の貧しい人たちをあえて選んだ」という事実を指摘します。

 さかのぼって考えてみると、神がイスラエル民族を神の民、選びの民とされたのは、彼らが数多く富んでいたからではありませんでした。神は申命記の中でこう述べています。

 「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7:7)

 神は敢えて貧弱なものを選んで神の民とし、祝福を増し加えてくださいます。同じようにパウロもコリントの教会の信徒に対して、こう述べました。

 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。…また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(1コリント1:26,28)

 すべての貧しい人がそうだとは言えないにしても、貧しいからこそ、神が必要だと感じる思いは、満たされて飽き足りている人よりも、かえって多いでしょう。

 主イエス・キリストは「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」とおっしゃっています。

 貧しさの中から神を思う気持ちを抱くようになった人たちと、教会がその思いを共有できなくなってしまったとしたら、それはキリストのお心に反することです。

 「あなたがたは、貧しい人を辱めた。」とヤコブは強く手紙の読者を非難します。

 ヤコブはさらに進んで、富める者たちの持っている問題にも心を留めるようにと促しています。

 確かに、一方では富は神の祝福のしるしである、という側面があります。しかし、他方では、すべての金持ちが正当な手段で富を得ているわけではないことも指摘しています。不正な富、人から搾り取った富やだまし取った富を聖書の神は忌み嫌われます。

 ヤコブがこの手紙を書くにあたって念頭に置いているのは、必ずしも神の祝福を豊かに与えられて、富を得た人たちではなさそうです。むしろ、事あるごとに裁判に訴え、平気で神の御名を冒涜する人たちです。もちろん、ヤコブは金持ちがすべてそうだといっているのではないでしょう。しかし、富に潜む危険にヤコブは教会の注意を促しています。

 貧富の格差が拡大しつつある現代の社会で、教会にはどちらの人々にも関わる機会が今後も増えつづけるでしょう。その中で、教会は神の恵みを確信し、貧しい者たちと共に歩むことが求められています。

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