熊田なみ子のほほえみトーク 2016年2月23日(火)放送

熊田 なみ子(スタッフ)

熊田 なみ子(スタッフ)

小さな朗読会198「悔い改めた王・ヨシヤ王について」
(「母と子の聖書旧約下」96-97章)

 ヒゼキヤの死後、息子のマナセが王位につきました、マナセはユダとイスラエルのどの王よりも長く治めました。彼は12才で王になり、55年間治めました。
 みなさんは、彼も父ヒゼキヤのように良い王でした、とわたしがいうと思うでしょう?そうでした―と、どんなにわたしも、いいたいことでしょう。ところが、マナセは、おそらくユダの王のうち、いちばん悪い王だったのです。彼は敬虔な父ヒゼキヤよりも、イスラエルの悪王アハブに似ていました。
 マナセは、自分の父のした善をみんなくつがえしていきました。父のこわした偶像の祭壇をみな建てなおし、バアルのための祭壇をつくって礼拝を強要しました。彼は太陽、月、星を礼拝し、神さまの聖い宮の庭にそれらのための祭壇をつくることもしました。
 また信じられないことですが自分の子供をあの恐ろしい異教偶像モレクの腕に抱かせて焼き殺しました。この野蛮な人はエルサレムで、多くの罪のない血を流しました。

 彼はまた、ユダの民に、神さまがイスラエルのために滅ぼされた国々よりも、もっと悪を働くように、すすめました。
 主はマナセにも、ユダの民にも預言者をおくって、その罪を警告されましたが、民は耳をかしませんでした。
 どうして、ヒゼキヤの時代に主をあんなに熱心に求めた民が、マナセが王になったとき、こうも直ぐに偶像に走ったのでしょう。
 実は、同じ人たちではなかったのです。前の時代の人々は、ヒゼキヤと同じころに死に、今は、その子供たちの時代でした。全国民が偶像礼拝にかたむきました。神さまを恐れる王のいるあいだは、かれらはしばらくのあいだ神さまに立ち返りましたが、根はどこまでも、偶像礼拝の国民でした。よい王が死ぬと直ぐに、民やその子供たちは神さまにそむいたのです。

 神さまは愛の神で、あわれみ深いお方ですが、正義の神さまでもいらっしゃいます。神さまは悪を罰しないで見すごすことはありません。
 神さまは、マナセがエルサレムでする悪事のため、ユダの民を遠くの国に捕えさせることを決心されました。神さまは、ユダの民が、父祖がエジプトから出て以来悪をなすので、その敵の手に渡されることにされたのです。神さまは、アッスリヤ軍の将軍たちをユダに向かわせました。彼らは、マナセをくさりでつなぎ、捕りょとしてバビロンに連れていきました。
 バビロンでの捕囚中、マナセはまったく別人のようになりました。彼は父の神さまの教えを覚え、神さまに熱心に祈るようになりました。主はその祈りを聞き、あわれんで、ふたたび王となるため、エルサレムに連れもどされました。
 マナセは、主のみが本当の神さまであることを知りました。本当に別人になってしまいました。残る一生、彼は、以前に自分がした悪を除こうとしました。彼は神の宮においた偶像を取り除き、神さまに酬恩祭や、感謝祭をささげ、ユダの民に、主につかえるように命じました。悪をもって治めはじめて、最後に善をした王は、マナセだけです。

 マナセの息子のアモンはわずか2年間治めましたが、その短い間に、彼は多くの悪をなしました。彼は父がつくり、死ぬ前に取り除ききれなかった偶像に、みなささげものをしました。アモンは、父のように善くならないで、ますます悪くなり、とうとう2年後に、自分の家で自分の家来に殺されました。ユダの民は、自分たちの王を殺した家来を怒り、彼らを殺しました。そして、まだ8才だったアモンの幼子ヨシヤを王にしました。

 8才のヨシヤはヨアシのように、少年王となりました。
 しかし、ヨアシとは違って、ヨシヤはどこかに隠され守られていなければならない、ということはありませんでした。だれもヨシヤ王を殺そうとは思いませんでした。だれもが彼に王となってほしいと思いました。彼は、ダビデの血筋のもので、王位の後継者でした。ユダ全国はヨシヤを王としました。そしてみなで、自分たちの少年王の安全をはかりました。
 ヨシヤは子供でしたが、子供でも主に仕えることができることを証明しました。彼は、統治のいちばん最初から、正しいことをしました。ヨシヤは16才のときから、祈り、神さまを求めました。それから数年後、彼はエルサレムから偶像や異教の神々の祭壇を取り除き始めました。
 ヨシヤは、人々が働くのを見て、指揮をとりました。彼は人々に、バアルの金属製の像や彫刻をこわさせ、それを粉々に砕かせ、その粉を、それらの像を拝んだものの墓に散らさせました。

 ヨシヤはまた、偶像をこわすため、イスラエル中の町々をまわりました。イスラエルの民が連れ去られて以来イスラエルに王はいませんでした。そのうえヨシヤは、自分がダビデの直系であるため、ユダと同様イスラエルにもせいとうな王であることを、知っていました。
 ヨシヤはイスラエルの町々をたずねるとき、重いおのやかなづちをもった大工を連れていきました。偶像や異教の祭壇は見つかりしだい、粉々に砕かれました。
 偶像が全部こわされたあと、ヨシヤは宮を何人かの優秀な職人に修理させました。何年間も放っておかれたので、宮はだいぶいたんでいました。

 人々が宮で働いているとき大祭司ヒルキヤは、すみのほうに古びた書物を一つ見つけました。ヒルキヤは大へん興味を感じ、書記に見せました。その書物を読んでみるとそれが、モーセの律法の書であることがわかりました。
 二人は、この書物を王のところにもってきました。そして書記は、昔々、モーセが言った言葉を王に読み聞かせました。
 これは、モーセが書いた書そのものではなかったかもしれませんが、少なくともその正確な写しでした。モーセがその書を書いて、至聖所の契約の箱のわきに置いてから、800年たっています。モーセは祭司たちに、7年に一度は、この書を取り出して民に読み聞かせるようにいったので、最初の書はもう古びてしまったのかもしれません。
 悪いことに、律法はあまり研究されていませんでした。もしその学びがなされていたら、民は悪くなったり、偶像礼拝に走ったりしなかったかもしれません。

 一方、主の律法が完全に忘れられたわけでもありません。善い王ヨシャパテは、民に主の律法を教えるために、国じゅうに教師をおくりました。この教師たちはそれぞれ、至聖所にある原文から書記がうつした写しをもっていきました。
 そのときから、300年はたちました。7年目ごとに律法を声を出して読むという習慣は、いつのまにか忘れられていました。民は続けざまに神さまの律法を破っていました。それは、一つには自分たちが不従順だったためであり、一つには神さまの戒めを知らなかったからです。
 ヨシヤ自身、律法を読まれたのを聞いたことがありませんでした。そして初めて、イスラエルの民が偶像を礼拝して神さまから離れたときに、民におよぶ恐ろしい呪いのことを、知りました。
 「もし、この書物のすべての言葉に従わなければ、主はあなたがたの苦しみをふやされる。あなたがたが主を捨てた罪のため、主はあなたがたのするすべてのことに災いをくだされる。
 神はあなたがたと、あなたがたの王を、あなたがたも祖父も知らなかった国におくり、そこであなたがたは木や石のほかの神々に仕える。あなたがたが主の声に聞かず、その戒めを守らなかったため、これらの罰は、あなたがたが滅びるまでくだる。」

 ヨシヤがこの呪いの言葉を聞き、自分の民が神がしてはならないといましめておられることをおかしているのを知ったとき彼は悲しみと恐れから着物を裂きました。ヨシヤはこの呪いについて神さまにたずねるため、祭司、書記、そのほか二、三人をつかわしました。
 預言者イザヤは、もうだいぶまえに死んでいました。女預言者ホルダが、その代わりをつとめていました。ヨシヤの使者たちは、彼女のもとにいきました。
 使者たちが、自分たちのきた用件を告げると、彼女は、「主はこういわれます。見よ、私はユダの王が読んだあの書物のすべての言葉にしたがって災いをこの所と、ここに住んでいる民にくだそうとしている。彼らがわたしを捨てて、他の神々に香をたいたからである。しかし、王は、この呪いを聞いたとき、主のまえにへりくだり、悲しんで泣いたから、神は彼の叫びを聞き入れられた。王は、神がこの国にくだすもろもろの災いを目に見ることはない。神は、王が死ぬまで待たれるからである」といいました。

 このことがヨシヤ王に伝えられると、王は、老いも若きも、みな集めて、大集会を開きました。そして神殿で見つかった書物の言葉を読んで聞かせました。それからヨシヤ王は立って、主につかえるというおごそかな約束をしました。彼は民にも、主につかえることを約束させました。
 ヨシヤ王は前よりも徹底的に国じゅうの偶像の取りこわしにかかりました。
 まず第一に、彼は祭司たちに、偶像バアルや、太陽、月、星の礼拝のためにつくられた器を全部、神の宮からもちださせました。これらの器は焼き捨てられ、その灰はよそにもってゆかれました。
 また、うらない師の家もこわさせました。だれも、彼らのところに相談にいかせないためです。魔法使いを生かしておいてはいけないというのは、神さまの戒めの一つでした。
 それから、ヨシヤ王はトペテという恐ろしいところにいきました。そこは、偶像モレクの腕に赤ん坊を抱かせて、焼き殺していたところです。ヨシヤ王はだれも二度とここにモレクを礼拝しにこないように、この谷を汚物で埋めつくし、汚らわしいところにしました。
 神の宮の側に、ユダが偶像で満ちていたころ、王のひとりが太陽神にささげたりっぱな馬が何頭かつながれていました。ヨシヤ王は、これらの馬をほかに移し、車を焼き払いました。

 エルサレムの向こうのオリブ山には、ソロモン王が異教の妻たちのためにつくった祭壇がまだいくつか残っていました。これらの偶像や祭壇は400年近くも、オリブ山の上に立っていました。ヨシヤ王は、この古い偶像をみな破壊し祭壇では、死んだ人々の骨を焼いて、だれも二度とそこでいけにえをささげないようにしました。
 べテルにもゆきました。そこには、300年前、悪王ヤラベアムが建てた金の子牛が1頭残っていました。
 ヨシヤ王がべテルの墓場に立って人の骨を掘りおこして異教の祭壇で焼く作業を指揮しているとき、そばの丘に、何か字の書いてある石碑を見かけました。彼は、「あそこに見える石碑は何か」とたずねました。
 町の人々は、「あれはあなたがたがべテルの祭壇に対して行われたこれらのことを、ユダからきて預言した神の人の墓です」とこたえました。
 これは事実でした。ヤラベアム王が、金の子牛礼拝のために初めてこの祭壇をつくったとき預言者が彼のもとに来て、ダビデの血筋のヨシヤという王が、この祭壇で人の骨を焼く、と預言したことがありました。
 ヨシヤは、自分の国にいた異教の祭司をみな殺し、その骨を異教の祭壇の上で焼きました。これは、こうすることによって祭壇をけがし、だれもそこでいけにえをささげなくするためです。
ユダの王が、みなヨシヤのような王だったら、偶像礼拝などユダになかったでしょう。ヨシヤは心をつくし、精神をつくし主につかえました。彼は神さまのおきての書にあることをすべて行ないました。

 ヨシヤが神さまに忠実で、よい人であったため、神さまは、ユダの悪のためユダにくだす罰の時期をおくらされました。しかし、その罰は近づいてきました。ヨシヤは実際上ユダの最後の王になりました。
 ヨシヤの生涯の終わりごろ、エジプト王パロ・ネコが、アッスリヤ王と戦うためユフラテ川へすすむ途中で、ユダの国をとおりました。
 当時、アッスリヤとエジプトが世界の二大国で、いつもお互いに戦争していました。また、イスラエルの国が両国の中間にあったため、いつもパレスチナをとおりぬけ、時には、そこで両軍が戦いました。
 ヨシヤ王は、エジプト王と戦おうとしました。彼は自分の軍隊を集め、戦いの準備をしました。
 パロ・ネコは、ヨシヤに、「わたしはきょう、あなたを攻めようとしてきたのではありません。わたしの敵アッスリヤの王を攻めようとしてきたのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしとともにおられる神に逆らうことをやめなさい」といってよこしました。
 しかし、ヨシヤは、エジプト王と戦う決心でした。彼は普通の兵隊の服装に着かえてパロ・ネコと戦いましたが、傷を受けてしまいました。
 家来は悲しみながら、傷ついた王を車にのせ、エルサレムに連れ帰りました。王はそこで死にました。
 ユダもエルサレムもみな名君ヨシヤの死を嘆きました。人々は、その愛する王のため、悲しみと愛の歌をうたい、預言者エレミヤは、悲しい哀歌をつくって死をいたみました。
 民は、ヨシヤの次男エホアハズを王にすることをのぞみました。祭司たちは、エホアハズに油をそそぎ、その父の代わりに彼が治めることになりました。

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