聖書を開こう 2015年12月17日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 試練の意味と揺るがない信仰(ヤコブ1:1-8)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今週からヤコブの手紙をご一緒に学んでいきたいと思います。パウロの書いた手紙に慣れ親しんでいる人にとっては、このヤコブの手紙に違和感を感じるかもしれません。
 たとえば、この手紙には「十字架」という言葉も「復活」という言葉も出てきません。「聖霊」という言葉も、「肉」と「霊」という対立した概念もありません。そして、「信仰によって義とされる」という教えに強く反対して、「行いによる義」を強調しているようにも見受けられます。そのために、宗教改革者のマルティン・ルターがこの書簡を「藁の書簡」と呼んだのは有名な話です。
 しかし、パウロの書いた手紙とは違う点があるとは言っても、この手紙もまた新約聖書の中に収められ、正典を構成する大切な文書の一つです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 1章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。
 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

 この手紙の書き出しは、この時代の典型的な手紙の様式に則って記されています。特に挨拶の言葉は、パウロの手紙とは違って、神の恵みや平安を祈る言葉ではなく、「挨拶いたします」とだけ記されます。
 同じような書き出しでしたためられた手紙は、使徒言行録の15章にも出てきます。それはエルサレムで開かれた使徒会議の決定を伝える使徒たちからの手紙がそうです。その手紙の書き出しはこうです。

 「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします」(使徒15:23)

 差出人は自分のことを「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と呼んでいます。新約聖書の中には「ヤコブ」と呼ばれる人物は数名出てきます。福音書の中にしばしば登場するゼベダイの子で、ヨハネの兄弟であり漁師であったヤコブは、十二弟子の中でも名前がよく知られた人物です(マルコ1:19, 5:37, 9:2, 10:35 ,13:3, 14:33)。ただし、この十二使徒の一人であったヤコブは、ヘロデ・アグリッパの迫害によって、紀元44年に殺されていますから(使徒12:2)、この手紙を残すとすれば、それよりも前ということになります。
 後で学ぶことになりますが、この手紙はパウロが主張する「信仰による義」ということを前提に書かれているようにも見受けられますので、パウロの手紙よりも後に書かれたのではないかと思われます。年代的に考えて、この手紙を書いたのはゼベダイの子ヤコブではなさそうです。

 もう一人、十二弟子の中にアルファイの子ヤコブと呼ばれる人物がいます(マルコ3:18)。この人は小ヤコブ(マルコ15:40)と呼ばれる人物と同じであるかもしれませんが、いずれにしても、アルファイの子ヤコブも小ヤコブも、名前ぐらいしか知られていませんから、この手紙の差出人であったとするには、根拠が乏しすぎます。

 新約聖書の中でもう一人有名なヤコブといえば、主の兄弟であるヤコブがいます(マルコ6:3, ガラテヤ1:9)。この人は、エルサレム教会の柱と目されるおもだった人たちの一人で(ガラテヤ2:9)、使徒言行録15章にしるされている使徒たちの会議で重要な発言をしたヤコブと同一人物です。エルサレムの教会の貧しい人々への援助金を異邦人教会から集めてエルサレムに携えていったパウロが最初に訪れたのも、このヤコブのところです。ですから、この主の兄弟ヤコブが、離散しているユダヤ人キリスト者に宛てて手紙を書いたとするのが、もっとも可能性が高いと思われます。
 もっとも、この手紙の格調あるギリシア語から考えて、果たしてエルサレム在住のヤコブがそのようなギリシア語をかけただろうか、と疑問を投げかける人もいます。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、手紙の本文を見てみたいと思います。最初に取り上げられる話題は、「試練」の問題です。それがどのような試練を指しているのか、具体的なことがらは述べられませんが、「いろいろな試練」と言われているように、一つの試練を念頭において書いているようではありません。何よりも、そのような試練に遭遇した時、この上ない喜びと思うようにと勧められていますから、元来、簡単に喜べるような優しい試練ではないことは明らかです。忍耐することが繰り返し述べられていることからもそのことがわかります。

 この「試練」という言葉は、後で13節に出てくる「誘惑する」という言葉と語源が同じです。信仰者を信仰から踏み外させようとする誘惑ですから、喜ばしいはずはありません。しかし、同じ事柄でも、それを「試練」と捉えるときに、そこに積極的な意味を見出すことができます。信仰が試され、忍耐を養われることで、キリスト者としての成長がもたらされます。

 誘惑を受けるときに、疑いを持ち始めるなら、たちどころに足をすくわれてしまいます。サタンの願いは人が神を疑うことです。「何故、キリスト者とされたわたしが今もなお誘惑にさらされるのだろうか」、「神は再びわたしをふるいにかけて、救いから脱落させようとされているのか」……。このようなことを疑い始めるのはまことに知恵のない考えです。正しい知恵に導かれ、忍耐して信仰に留まることが神の願っておられることです。そのような知恵に欠けているのであれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願うようにとヤコブは勧めています。

 ここでヤコブは、いささかも疑うことなく、信仰をもって願うようにと強く勧めています。

 疑いながら、神を信じて求めるということは、言葉の矛盾であるばかりか、その生き方自体が矛盾しています。けれども、いったん疑いに囚われてしまうと、そのことにさえ気がつきにくくなってしまいます。

 ヤコブはそのような人を、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ていると記します。揺れ動く心こそ、サタンの願うことです。

 試練を信仰の成長の機会ととらえ、神により頼みながら歩むとき、試練に満ちたこの地上での信仰生活を喜ぶことができるようになります。

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