聖書を開こう 2013年4月25日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: エフェソでの宣教活動(使徒19:8-10)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしがお世話になった先輩牧師の言葉で、印象に残っている言葉があります。それは、「伝道もギャンブルも一緒だ」と言うものです。これだけを聞くと、随分不敬虔な発言ですが、その意味するところはこう言うものでした。
 それは伝道熱心で、攻めの伝道ばかりを考えている、神学校出たての若い伝道者を戒める内容でした。そういう新米伝道者が犯しやすい過ちは、始めた伝道から身を引くことができないことだというのです。特に、伝道が行き詰まってしまったときに、客観的に見つめる目を失って、ただがむしゃらに突き進んでしまいがちです。そういう伝道者の失敗を、負けが続いて余計にギャンブルにつぎ込んでしまう人の姿とを重ね合わせて、伝道にも引き際があることを、若い経験不足の伝道者に教えようとしたものでした。
 確かに熟練した伝道者には、それなりの経験や勘が働いて、引き際をうまく捉える事が出来るのかも知れません。しかし、もっと大切なことは、経験や勘ではなく、聖霊の導きに対して自分自身を委ねる謙虚さではないかと思います。きょうの個所でもパウロはただがむしゃらに突き進むだけの伝道ではなく、一つの場所から身を引いて行く機会を上手に捉えています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 19章8節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 パウロは会堂に入って、3か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが2年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。

 パウロは三回目の宣教旅行では、エフェソを拠点として、そこで比較的長い期間の福音宣教を行いました。確かに最初の宣教旅行でも、アジア州の都市を回り、福音を宣べ伝えましたが、それぞれの町に滞在する期間は短いものでした。二回目の宣教旅行では、最初の計画とは裏腹に、アジア州での伝道はそれぞれの町を通過するだけで、ほとんど御言葉を語る機会を得ることができませんでした。むしろ、二回目の宣教旅行は、海を渡ったマケドニア州やアカイア州のために道が開かれていました。アジア州での伝道に関しては、その旅行からの帰り道に、ごく短い期間、エフェソに滞在して、福音を伝えたことが記されているくらいでした。

 今までの宣教旅行で、パウロが一か所に長期間腰を据えて伝道するという経験はほとんどありませんでした。前回の宣教旅行で、コリントに1年6ヶ月滞在したというのが今までで一番の長逗留の記録でした。

 さて、先ほども少し触れましたが、前回の宣教旅行の終わりに、パウロはエルサレムに向かう途中で、エフェソに立ち寄りました。それは船の都合ということもありましたが、パウロはエフェソでの短い停泊の期間を、福音宣教のために用いました(使徒18:19-21)。会堂でのユダヤ人との議論は、パウロに好印象を与えたのでしょう。三回目の宣教旅行では、ガラテヤ、フリギア地方を周り、内陸を通って、このエフェソにやってきました。

 エフェソでの滞在期間中に起こったエピソードについて、使徒言行録は四つのエピソードを挙げて記していますが、きょう取り上げるのはその二番目のエピソードです。

 前回エフェソにやってきたとき、パウロは短い期間とはいえ、その機会を捉えて会堂に赴き、そこでユダヤ人と議論しました。もうしばらくエフェソに滞在するようにという人々の誘いもあったほどですから、会堂での伝道は十分に成果を上げられるとパウロには思えたことでしょう。また、そうであればこそパウロは再びこの地を訪れたのだと思います。

 しかし、今回のエフェソの訪問では、会堂での宣教は期待したほど長くは続きませんでした。僅か3ヶ月ほどでとん挫してしまいます。それはある者たちが、頑なに信じようとはしないで、会衆の面前でキリスト教の教えを非難したからでした。
 ここでいうある者たちというのが、影響力のないごく少数の人々であるのか、あるいは少数であっても影響力のある人たちであるのか、詳しい事は記されていません。この場合、パウロがとることのできる道はいくつもあったことでしょう。これらの人々を無視して、さらにユダヤ人の会堂での伝道を続けるというのが、その一つの選択肢です。もう一つはこれらの人たちと会衆の面前で激しく議論を戦わせることです。しかし、パウロがとったのはそのどちらでもなく、伝道の拠点を変更するということでした。パウロ自身が身を引き、さらに弟子たちも退かせて、ティラノという人の講堂を借りて、そこで新たな伝道活動を始めます。

 パウロのこうした行動は、確かに今までの伝道にも見られました。最初はユダヤ人の会堂で教え、そこで幾人かの実りを得たところで、ユダヤ人からの反対を機に、伝道の対象をユダヤ人から異邦人に変えていくというやり方です。コリントにいた時も、同じように最初は会堂で、それからユダヤ人の反対にあって、ティティオ・ユストという異邦人の家に拠点を移しました。

 ただ、エフェソでの伝道では、パウロはユダヤ人伝道をやめて、異邦人の方へ行くという宣言をはっきりと出しているわけではありません。19章10節には「ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」とあるのですから、引き続きユダヤ人にも福音が語られたのでしょう。

 さて、このエフェソでの伝道活動は、2年も続いたとありますが、後にパウロがエフェソの長老たちを呼び寄せて語った話の中では、パウロは3年にわたってこの地での伝道を続けたことになっています。先にユダヤ人の会堂で教えた3カ月と、きょうのエピソードにつづいてなお滞在した期間を加えると、だいたいパウロのいう3年間という数字になるのだと思われます。

 ところで、使徒言行録には「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」と記されています。これはエフェソでの合計3年にわたる伝道の成果と言えますが、その範囲はエフェソだけにとどまらず、アジア州と表現されます。それは、単なる誇張ではないでしょう。
 コロサイの信徒への手紙が宛てられているコロサイの教会や、またその手紙の中に記されている「ラオデキアの教会」(4:16)は、パウロ自身が直接伝道した教会ではなく、エパフラスから教えを受けた教会でしたが(1コロサイ1:7)、こうしたパウロの同労者たちの働きも含めて、エフェソを拠点とした伝道の業が広がっていったのでした。

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