熊田なみ子のほほえみトーク 2013年3月5日(火)放送

熊田 なみ子(スタッフ)

熊田 なみ子(スタッフ)

イエスの十字架(「キリスト教への手引き」榊原康夫著より)

 2013年1月6日、午後0時15分、81歳で榊原康夫先生(日本キリスト改革派東京恩寵教会名誉牧師)が天国に凱旋されました。今年ももうすぐ受難週、そしてイースターです。
 「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネ11:25-26)
 榊原先生は、月刊誌「ふくいんのなみ」の前身である「月刊あさのことば」に1971年1月から1973年4月まで28回にわたって「キリスト教への手引き」を連載してくださいました(その後出版されましたが今は絶版)。御茶ノ水オフィスには貴重な本が残されていますので、先生を忍びつつ今週は「十字架」、来週は「復活」についてのページをご紹介します。


イエスの十字架

 私は大学一年のとき教会にかよい始めましたが、毎日曜の説教で「イエスはあなたのために十字架で死なれた」と言われるのが、ふしぎでなりませんでした。

 十字架は、本来はユダヤのものではありません。ユダヤでは、死刑囚の死体を木にかけてさらしものにすることはありました。この形をとるのは、最高の極刑です。「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」(申命記21:23・口語訳)。

 ユダヤがスリヤ領になり、またローマ帝国領になると、生身の囚人をはりつけにして殺す十字架刑があちこちに持ち込まれるようになりました。それでもこの処刑法は、ローマ帝国の反逆罪のような大それた極悪罪の刑に限られていました。それでイエスの十字架刑は、イエスが神からも人(ローマ帝国)からも呪われた最悪の罪人であることを意味します。

 イエスを十字架につけよと求刑したのは当時のユダヤの最高宗教議会で、「その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当る者です」と論告したのでした(ヨハネ19:7・口語訳)。イエスに十字架刑の正式判決を下したのは、この訴えを受けたローマ帝国スリヤ領ユダヤ地方総督ポンテオ・ピラトの裁判でした(ヨハネ19:13-16・口語訳)。人類最高の法であるローマ法が、イエスを十字架に宣告したのです。このように、イエスは神と人から正式の有罪判決を受けて殺されたのであって、決してリンチでも誤審の結果でもありません。まさしく人類最大の罪を負うて死んだのです。しかし、イエスがそんな罪人でなかったことはだれにも明らかでしょう。それなら、イエスの負うていた罪は、誰か別の人々の罪を身代わりに負うていたのです。イエスが他人の罪を弁償するために死刑にあい、そのおかげで罪人たちが無罪放免の救いを味わうようになるカラクリを、聖書は「贖い(あがない)」ということばで教えています。

 「贖い」とは、読んで字のごとく、貝殻を貨幣として売り買いした古代の習慣から造られた言葉で、所有権を買い戻すことです。貧乏のために身売りした奴隷を、親類の金持ちが身代金を払って自由にしてくれると、奴隷はあがなわれたのです。

 私は貧しく空腹の少年です。ついフラフラと手がのびて、パン屋の店先からアンパンを盗み、かぶりつきます。「この泥棒めーッ。チキショウ。金を払え!」。店の主人につかまり「盗み」の罪に問われ、代金を払え、と責められます。かわいそうな私。そこへ友だちが来て、私に代わってパン代を払ってくれると、パン屋の主人は、金さえ貰えばよいのですから、私に一言二言注意して私をゆるしてくれます。私はあがなわれたのです!罪の責めの下に拘束されていた状態から開放され、自分の自由を買い戻せたのです。ただし、あの友の犠牲において。

 イエスは、罪人を救うために来たキリスト(メシヤ)、神の子、と自己主張しました。それだから「死罪に当る者」とユダヤ教議会は言ったのですが、この論法でいくと、たといどんな人物が真実、神からつかわされてきたとしてもダメになります。つまりは、神の子や救い主は来てはならないと言うに等しい論法です。”神はいてはならない。救われる必要は無い”これこそ神への罪の極致でなくてなんでしょうか。イエスは、この人間の罪そのものによって、罪そのものを負うて死んだのです。彼は十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫びました(マルコ15:34)。神がイエスを、人間の罪の結晶として「見捨てる」ことにおいて、罪に対する正義の憤りを集中的に注がれたのです。「全地は暗くなって、三時におよんだ」その暗黒に服することにおいて、イエスは、本来なら私たちが味わう暗黒と絶望と罪とを代わって受けていたのです。

 もろん、パン屋の主人は、商売ならこそ、代金を支払う人が身代わりでも結構、と許せるのです。道徳的な罪の処刑において替玉とわかって身代わり処刑を認めるようでは、法の正義そのものが崩れ去ります。聖書も、そのような替玉を禁じています(出エジプト23:6-8、申命記24:16・口語訳)。

 しかし、法の根源たる神が、人類を救うときにだけ、ご自身の愛子を身代わりにするときにだけ、自己犠牲において例外を許されたのです。それで聖書は、この理屈に合わぬ神の例外的処置を「恵みによる」と説明しています。イエスの十字架が私たちの身代わりであったというのは、ただ恵みによることで、合法的には私には解説できません。しかし、説明はできないが、この恵みを信じないで、あなたは合法的に、正当に、自分で絶望的な身を救い自由をかちとれますか?

 「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ3:23-24・口語訳)。

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