キリストへの時間 2013年12月1日(日)放送 キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 主イエスと出会った人々-マリアの場合-

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 きょうからアドベント、待降節に入ります。クリスマスまでの四つの日曜日、救い主のご降誕を覚えながら、この期間を過ごしましょう。
 さて、今月もイエス・キリストと出会った人々を一人ずつ取り上げて、聖書からお話ししたいと思います。きょうはイエス・キリストの母、マリアを取り上げます。もっともこのマリアに関しては「出会った」という表現は少し語弊があるかもしれません。

 この世の人間の中で、イエス・キリストの存在を誰よりも先に感じたのは、このマリアでした。キリストが生まれる前から、お腹に胎動を感じ、また誰もその顔を見たことがない時にも、マリアだけは自分の身に宿った救い主の命を感じることができました。救い主の胎動を身に感じる、こんな体験を持つ女性は、世の中広しといえども、マリア一人の他には誰もいません。洗礼者ヨハネの母エリサベトは、このマリアに対して「あなたは女の中で祝福された方です」(ルカ1:42)とさえ言っています。
 しかし、祝福された女性とはいえ、救い主を自分の身に宿すという現実を受け入れることは、簡単なことではありませんでした。というのは、マリアが救い主を自分の身に宿したのは、普通の結婚生活からではなかったからです。
 聖書はそれを、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(ルカ1:35)と語る天使の言葉で説明しています。後に教会ではそれを「処女降誕」という用語で表現しています。ただ、それをどんな人間の言葉で表現しようとも、理解しがたい現実には変わりはありません。第三者が理解しがたい現実を、当事者であるマリアが理解したり、受け入れたりすることは、どれほど困難なことであったでしょうか。
 聖書を読むと、この受け入れがたい現実を、マリアはこう受け入れました。

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)

 このとき、マリアの年齢は、14、5にも満たないあどけなさの残る年頃であったと言われています。神の望まれることが、自分の身に起こるようにと、頭では理解できないことを、信仰によって受け入れたのです。

 さて、イエスの母として、マリアが経験しなければならなかったことは、神の子救い主をその身に宿すという特殊な体験だけではありませんでした。その中でもっとも辛い体験は、息子であるイエスの死を耐え忍ばなければならなかったことです。
 十字架の上で死なれた救い主は、復活して甦ったのですから、そんなことは何でもなかったことといったい誰が言えるでしょうか。どんな母親でも、自分が産んで育てた子供を失うことは、耐え難い悲しみです。まして十字架の上で晒し者になりながら、苦しみ悶える息子の死を、平然と受け止める母親などどこにもいないでしょう。
 聖書には十字架の上で息を引き取る様子を、他の婦人たちと共に見守る母マリアのことが記された個所があります(ヨハネ19:25)。マリアにとって息子イエスの身に起こったこと、その誕生から死に至るまで、さらには復活に至るまで、これほど人間の理解を超えたことはなかったでしょう。しかし、その一つひとつを心にとめ、受けとめてきたマリアの姿勢は、信仰に生きるすべての人にとって善き模範であり、励ましです。

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