聖書を開こう 2012年8月23日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 主の召しのままに(使徒9:10-19a)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 将来牧師になろうと目指している人たちの面接をする機会がありました。その人たちはみな自分が将来牧師になるようにと神から召されていることを自覚している人たちです。しかし、その一人一人はみな同じタイプの人たちではありません。中にはほんとうに大丈夫だろうか、と心配になる人もいます。ほんとうにふさわしくない人物であれば、当然、本人のためにも教会のためにも諦めてもらわなければなりません。
 しかし、その判断は決して簡単ではありません。心配に思っていた人が、思いのほか成長し、牧師として立てられていく姿を見ると、いったいどこでどう判断するのかは、毎回のことながらほんとうに難しく思います。
 きょう取り上げる個所に出てくるアナニアという人は、きっとわたし以上に葛藤を覚えたに違いありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 9章10節〜19節前半までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。

 きょうの個所は先週取り上げたサウロの回心の話の続きです。ダマスコに迫害の手を伸ばそうと、意気揚々と出かけて行ったサウロは、その途上でイエスと出会い、最初の目的とはまったく違った目的のためにダマスコの町に入ります。そこでサウロがなすべきほんとうのことが知らされる、というイエスの声を聞いたからです。もっともそのとき目が見えなくなったサウロには、ただ手をひかれていくしかありませんでした。

 きょうの聖書の個所にはサウロの回心にかかわるもう一人の人物が登場します。名前をアナニアと呼ぶ人物です。アナニアについては、このサウロの回心の場面にしか出てこないために、どういう人物であるのかは詳しいことは分かりません。その名前はユダヤ人の名前ですから、ユダヤ人キリスト者であったことは確かです。
 そもそも、ダマスコにどのようにしてキリスト教が入って行ったのかは使徒言行録にも記されていません。ペンテコステの日に回心した多くのユダヤ人の中にダマスコから来た人たちがいて、その人たちを通してダマスコにも既に福音がもたらされていたのかもしれません。

 後にパウロ自身がこの時のことを回想して語る場面では、このアナニアは「律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした」と紹介されています(使徒22:12)。
 この場合、「そこに住んでいるすべてのユダヤ人」というのは、ダマスコにいるキリスト教会のユダヤ人ばかりではなく、ユダヤ教のユダヤ人からも評判を得ていたという意味でしょう。

 今回の大迫害のきっかけを作ったステファノは、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト者でしたが、このグループの人々は、少なくともエルサレムのユダヤ教の人々からは、神殿と律法をけなし、神を冒涜する人たちだと見なされていました(使徒6:11,13)。それに対して、ダマスコのアナニアは、キリスト教信仰とモーセの律法とが両立しうるものであることを生活によって示し、ユダヤ教の人々を刺激するような言動をしていなかったようです。

 このアナニアが幻の中で主の示しを受けて、ある人を訪ねるようにと促されます。その人物は今、ダマスコの「直線通り」と呼ばれる通りにあるユダという人の家にいる人物で、タルソス出身のサウロであると告げられます。

 ダマスコ在住のすべてのユダヤ人から評判を得ているアナニアとはいえ、サウロのもとを訪ねることははばかられます。なぜならサウロがキリスト教会に対してエルサレムで行ってきたことは既にアナニアの耳に入っていましたし、ここダマスコにサウロがやって来た理由もすでに知られていたからです。

 このとき、アナニアは、ダマスコへ来る途上のサウロの身に起こったことを噂で聞いていたのかどうかは分かりませんが、聞いていないとすれば、なぜ自分たちを迫害する者のところへわざわざ出向いていかなければならないのか、一層つよい疑問と抵抗があったに違いありません。さっそく幻の中で聞いたことに対して、疑問を投げかけます。

 しかし、幻の声は「行け」という命令を繰り返し、サウロには告げなかったサウロ自身の使命について、アナニアに知らせます。

 その幻によればサウロは「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために」主が選んだ器なのです。

 パウロ自身はのちにガラテヤの信徒への手紙の中でこう記しています。

 「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた…。」(ガラテヤ1:13-16)

 さて、アナニアは主に告げられた通りにサウロのもとを訪ねていき、サウロの上に手を置いて「兄弟」と呼びかけています。

 使徒言行録は命じられるがままに動くアナニアの姿を淡々と描いていますが、迫害者であるサウロに手を置き、「兄弟」と呼びかけることは、アナニアにとっては大変大きな決断であったはずです。
 人間的な思いを捨てて神の示しに従ったアナニアを通して、サウロは洗礼を受け、教会の交わりへと加えられたのです。このアナニアはこの後、使徒言行録の舞台には再び登場しません。しかし、このアナニアの働きを通してこそ福音の働きは前進していったのです。

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