聖書を開こう 2012年8月2日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 福音の受容と誤解(使徒8:9-25)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 新しいものを理解するということは、だれにとっても簡単なことではありません。どうしても既に知っているもののイメージで新しいものを理解しようとしてしまうからです。これはキリスト教の宣教師たちがもっとも苦労する点であると思います。
 一見、自分たちが伝えた福音が受け入れられたように見えても、実際には受け手の側が、キリスト教の福音を自分たちの考えに同化させて受けとめているにすぎない場合があるからです。そこを見極め、正しく理解できるまで気長に教育的な伝道を続けることがキリスト教を伝える者の使命であると思います。

 さて、初代のキリスト教会も、宣教の働きが広がるにつれて、福音が人々によって受け入れられる喜びを味わう半面、歪んだ福音理解とは断固として戦わなければならない場面も出てきました。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 8章9節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、”霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。

 前回の学びでは、ステファノの殉教の死をきっかけに起こった迫害のために、エルサレムから散らされて行った人々が、行く先々で福音を告げ知らせながら巡り歩いたことを学びました。その中のある人たちは、ユダヤ人とは仲のよくないサマリア人の地までも福音をもたらしました。

 きょうはその続きの話です。使徒言行録は特にフィリポの働きを中心にサマリアでの伝道活動を報告してきましたが、ついにこのサマリアの町で福音を信じる者が起こされ、男も女も洗礼を受けるようになりました。

 この出来事を語るに先だって、使徒言行録はこの町にいた魔術師シモンという人物について触れます。シモンは自分のことを「偉大な人物」と呼んでいたというばかりではなく、町の人々もシモンのことを「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していました。
 そういう背景の中で町の人々がキリストを信じ、福音を受け入れたのですから、これは大きな変化です。確かに見方によっては、サマリアの人たちはシモンの魔術からフィリポの行う不思議な業に鞍替えしたに過ぎないという評価もあるかもしれません。しかし、使徒言行録は、このサマリアの人たちの回心を、単なる鞍替えとは区別しています。

 先週取り上げた個所で、フィリポが中心的なこととして行ったのは不思議なしるしではありませんでした。フィリポがしたことは、人々にキリストを宣べ伝えることでした(使徒8:6)。確かにしるしも行いましたが、それはしるしそのものに意味があったのではなく、人々の関心をよりいっそうフィリポの語るキリストへと向けさせるためのものでした。
 「群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った」(使徒8:6)と記しているとおりです。人々の関心は、しるしそのものよりも、むしろフィリポが語るキリストへと移っている様子がうかがわれます。

 ですから、きょうの個所でも、しるしのゆえに信じたのではなく、「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」のです。しかも、その人々は、かつては魔術師シモンによって行われた魔術によって心奪われていた人々でした。しかし、今は魔術を信じるのではなく、「神の国とイエス・キリストの福音」を信じて受け入れているのです。

 ところが、驚くべきことに、当の魔術師シモンもまた洗礼を受けたとあります。もちろん、福音を正しく理解し、イエス・キリストを心から受け入れたのであれば、これほど喜ばしいことはありません。ところが、すぐにもシモンの福音に対する理解が、大変な誤解に満ちていたことが暴露してしまいます。

 サマリア人たちの回心を耳にしたエルサレムの教会はさっそくペトロとヨハネをサマリアに遣わします。遣わされた理由は記されてはいませんが、この二人が回心したサマリアの人たちに行ったことから明らかです。それは、エルサレムの教会の人たちと同じように、彼らを同じキリストを信じる者として受け入れたということです。なんのためらいもなく、自分たちが受けたのと同じ聖霊が、福音を信じたサマリアの人々にも降ることを願ったのです。ここにユダヤ人という枠を超えて一つの神の民の共同体が生まれました。

 さて、問題は先ほどの魔術師シモンです。この人も洗礼を受けましたが、彼がもっとも関心を持ったのは、キリストによる救いではなく、フィリポに不思議なしるしを行わせていたに違いないと思われる聖霊の働きでした。使徒たちが聖霊が降るようにと人々に手を置くと、自分にもそのそうな力が欲しいと願ったのです。しかも、お金でその力を手に入れたいと使徒たちに願い出たのでした。
 シモンがどんな動機でそんなことを願ったのかは分かりません。利己的な思いでそう願ったのかもしれませんし、純粋に人々のためなら全財産をつぎ込んでも惜しくはないと思ったのかもしれません。どちらであるにしても、聖霊の働きをお金に換算し、お金によって神の賜物を手に入れることができると考えるのは、キリストの福音から外れています。ペトロはこの福音から外れた発言に、少しの譲歩もしません。徹底的にシモンの間違った考えを指摘します。

 キリストが勝ち取ってくださった救いは、信じる者に値なしに与えられるとはいえ、それは価値がないのではありません。むしろどんな代価を支払っても支払うことができない罪の代価を、キリストが身代わりとなって支払ってくださったのです。聖霊が信じる者の上に降るのも、ただこのキリストの贖いによるのです。

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