聖書を開こう 2012年5月24日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 信徒たちの祈りの力(使徒4:23-31)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 洗礼を受けて間もないころ、牧師先生の祈りというのは特別な力があると純粋に信じていました。牧師には信徒には知られていない秘密の能力が備えられていて、祈りに専念していると、信徒の必要が手に取るように見えてきて、信徒のために適切な祈りができるのだ、と思い込んでいました。わたしがそう思ったのは、最初に出会った牧師が、わたしのためによく祈ってくれたからです。
 自分が牧師になってみて、そういう特別な能力は与えられませんでしたが、しかし、祈りには力があるという思いは変わることなく持っています。いえ、祈りに力があるというよりは、祈りを聴きあげてくださる神さまには、祈りに的確に応えて下さる力があるということです。このお方がいらっしゃるからこそ、祈りに力が入るのだと今では思っています。
 使徒言行録の中には様々な機会に熱心に祈る信徒たちの姿が描かれています。この祈りの姿勢からきょうも学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 4章23節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

 エルサレムの神殿の「美しい門」のところで行った奇跡のために、ペトロとヨハネが捕らえられ、取り調べを受けた話を、先週まで何回かに分けて学んできました。キリスト教会に対する大々的な迫害というわけではありませんが、しかし、初代キリスト教会にとっては、最初に経験した弾圧であったことは間違いありません。
 今後イエスの名によって語ることを禁じられたペトロとヨハネは、その決定を下したユダヤ人たちの会議の議場できっぱりと「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と弁明しました。そこまでを先週の学びで取り上げました。

 さて、釈放されたペトロとヨハネが向かったのは、仲間の人たちのところでした。すでにこの時にはキリストを信じる者の数は五千人にも膨れ上がっていましたが(使徒4:4)、ペトロたちが向かった先に、その五千人がみな集まっていたということではないでしょう。しかし、ペトロたちの帰りを心配しながら待ち焦がれていた人の数は決して少数ではなかったはずです。少なく見積もったとしても、以前、二階の部屋で祈りをもって聖霊降臨の日を待ち望んだ弟子たちと幾人かの婦人たちの仲間は、そこにいたことでしょう。そしてペトロたちが戻った先というのは、おそらくこの二階の部屋だったと思われます(使徒1:13)

 ペトロたちの報告を聴いた仲間たちは心を合わせて祈りました。その祈りの言葉がここに記されています。使徒言行録では今までにも初代教会の人たちが祈りに熱心であった様子を記してきましたが(使徒1:14,24、2:42)、祈りそのものの言葉を記しているのは、欠けた使徒の一員を補う時に捧げた祈りの言葉(使徒1:24)以来のことです。しかも、ここではかなりの分量を割いて、祈りの言葉を記しています。

 その祈りはまず、天地の創造者である主なる神に対する呼びかけの言葉で始まります。

 「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」

 天地万物を創造された神という信仰は、創世記以来、聖書全体を通して一貫して流れる信仰ですが、そこには創造者であるお方は、同時にその天地万物を所有し、支配されるお方であるという信仰も含まれます。しかも、ここで「主よ」と呼びかけている言葉は、普通なら「キューリエ」という言葉が使われるべきところでしょうが、あえて「キューリエ」ではなく「デスポラ」と呼びかけています。どちらも「主人」をあらわす言葉ですが、ここで使われている言葉は「支配者」「所有者」というニュアンスがいっそう強い言葉です。この祈りが、天地万物の創造者であり支配者であり所有者であられる神への呼びかけで始まっているのには理由があります。
 「イエスの名によって語ってはならない」と命じたユダヤ最高法院に対して、神はそれを遥かに超えたまことの支配者であり、ユダヤ最高法院の議員たちもまた神によって造られた者にすぎないという思いが込められているのでしょう。同時に、ペトロたちの報告に対して、まことに服従すべき権威はどこにあるのか、という答えにもなっています。神をまことの支配者であると告白する信仰は、その支配者に対する服従の思いにもつながります。自分たちが耳を傾け服従すべきは、ペトロたちを脅した最高法院の決定ではなく、天地万物の創造者であり所有者であられる主なる神であるとの信仰がここに言い表されています。

 さて、神への呼びかけの言葉に続いて、今自分たちの身の上に起こっている事態を、聖書の御言葉に照らして理解し、受け止めようする姿勢が表明されます。ここに引用されているのは詩編2編の言葉ですが、まさにこの言葉の通り、この世の支配者たちはイスラエルの民と一緒になってメシアに逆らって立ちあがったのでした。そして、メシアに向けられた敵意は、その名によって語る使徒たちにも今や向けられようとしています。

 初代教会の人々は自分たちの身に起こったこれらのことを、何か予想もしなかった出来事とは思わず、聖書の預言の言葉の成就と理解して、今自分たちに加えられようとしている苦難を乗り越えて先に進もうと祈っているのです。

 神が与り知らないところで、迫害や弾圧が起こっているのだとしたら、これほど絶望的なことはありません。しかし、初代教会の人々は、今自分たちに起こっていることが、起こる前から神によって知られ、神の支配のもとで起きている出来事であると確信して祈っているのです。ペトロやヨハネが味わった苦難が、神のみ手の中で起こった出来事であると理解すればこそ、彼らは神に対して大胆に願いごとを訴えています。

 その願いは、「思い切って大胆に御言葉を語ることができるように」ということと、「イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるように」という二つの願いでした。ユダヤ最高法院から命じられたこととは正反対に、彼らは命令に背いて再び投獄されることがあっても、それでも大胆に語れるように、大胆に主の御業を行うことができるようにと祈ったのでした。

 大胆に御言葉を語ることは、今の時代でも容易なことではありません。そうであればこそ、大胆に語ることができるように、まことの支配者であられる主なる神に今の時代でも祈り続ける必要があるのです。

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