聖書を開こう 2011年8月11日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 約束された栄光(ローマ8:18-30)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 山道を車で走っていると、ごく稀ですが十分な明かりがないトンネルに出くわすことがあります。自分の車のヘッドライトだけが頼りのような暗さのトンネルです。しかし、トンネルというのは出口があることが分かっているので、どんなに真っ暗なトンネルでもそれほど不安に思うことはありません。

 きょう取り上げようとしている個所で、パウロは「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と記しています。もしパウロが、現在の苦しみに出口があるのか分からず、しかも、出口の向こうが今以上に悲惨であるとしたら、こうは書かなかったでしょう。
 希望をもって生きる上で大切なことは、三つのことを知っている必要があります。それは現在の苦しみには出口があること、出口の向こうには栄光が待ち受けていること、そして、必ず出口に至るプロセスがあることです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 8章18節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

 前回取り上げた個所のおしまいで、パウロはこう述べました。

 「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

 クリスチャンが神の子供とされているということは、神の御国を受け継ぐ相続の権利があるということを意味しています。パウロはキリストと共に相続にあずかるその栄光について語りましたが、同時にこの世で味わう苦難についても言及しました。
 きょうの個所はそのことを受けての展開です。

 キリストを信じ、罪を赦され、義とされ、神の子とされたクリスチャンですが、そのことはただちにこの地上でのあらゆる苦しみから解放されるということを意味しているわけではありません。一つには、イエス・キリストご自身がこの世の無知と無理解によって迫害を受けたように、キリストに従う者たちにも同じような苦しみが襲います。
 もう一つには、人間の罪が招いた悲惨と苦しみは、終末の時まで依然として造られたものすべてに及んでいるからです。
 しかし、こうした苦しみは、やがて現れることになっている栄光に比べれば、取るに足りないことだ、とパウロは述べます。

 というのは、人間の罪がもたらした悲惨さは被造物全体をも巻き込むものでしたが、しかし、それは神の手には負えないほどの虚無ではないからです。むしろ、神は最も賢い知恵によって、大地が呪われることを許し、神の最も賢い配慮によって、そうした虚無からの救いを計画されたからです。そういう意味で、約束された栄光は決して絵に描いた餅ではなく、神の御手によって必ず実現するものなのです。

 けれども、今は被造物もクリスチャンも、栄光が現れる時を待ち望みながら共に苦しんでいるという現実があります。その現実をまるでないかのように無視することはできません。しかし、その苦しみは決して将来実現する希望を打ち砕くほどのものではありません。

 そればかりか、わたしたちのうちにあって、わたしたちが神の子供であることを確信させる神の聖霊が、弱いわたしたちを助け、言葉にならないうめきをもって執り成してくださっています。ですから、栄光の時を待ち望みながら、希望をもって地上での信仰生活を全うすることができるのです。

 さらにパウロは、この希望が失望に終わらない確かなものであることをこう述べます。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 この言葉は、ただ万事が益となるという原理や原則を語っているのではありません。現に神は神の民であるイスラエルをそのように導いてくださったという救いの歴史に裏打ちされた言葉です。それはイスラエルの弱さや罪をも含む万事ですが、そのすべてを最も賢い方法で益となるように神は導いてくださっているのです。そうなのですから、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」ということができるのです。

 パウロはこの段落をこう結びます。

 「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

 万事を益としてくださる神の救いの御業は、既に神が愛してくださる者たちの上に実現しつつあります。神はクリスチャンたちを召しだし、義としてくださいました。さらには栄光をもお与えくださっているのです。その完全な実現は終末の完成の時を待たなければなりませんが、しかし、栄光をお与えくださるという神の約束は変更されることも、失敗に終わることもないのです。このような力強く恵みにあふれた神の救いの約束をわたしたちはいただいているのです。

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