BOX190 2011年6月29日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 聖書の霊感説について 埼玉県 ハンドルネーム・改革派大好きさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいの改革派大好きさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも放送を聞かせて頂いている者です。ご質問をさせて頂きたいのですが、先日牧師先生とお話をさせて頂いている中で、聖書の霊感の話がありました。
 ベルコフという人の教科書に載っていた言葉でしたが、『言語霊感』『十全霊感』という言葉が書かれていました。現在の改革派教会の聖書の霊感に対する考え方の表現と思われるのですが、現在の改革派教会は聖書の言語十全霊感に立ち、聖書の神的性格、誤りが無いこと、信頼できることの根拠としていると思われ、素晴らしい表現と事実であり、そのことを与えて下さる神に感謝をしたいと思いました。
 現在の改革派教会の聖書の霊感についての考えを教えて頂き、又言語霊感・十全霊感の意味をお教えいただければと願います。宜しくお願い致します。」

 改革派大好きさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。今回は聖書の「霊感説」についてのご質問ですが、この番組を聴いてくださっている方の中には、今、ご質問の中に出てきた名前や用語を聞いてもほとんど馴染みがないという方もいらっしゃるのではないかと思います。むしろそういう方の方が多いのではないかと思います。

 ご質問の中に出てきたベルコフという人ですが、ルイス・ベルコフというアメリカの教義学者で、1873年にオランダで生まれ、9歳のときに家族とともにアメリカのミシガン州に渡ってきました。カルヴィン神学校とプリンストン神学校で学んだあと、1906年にカルヴィン神学校に招かれ、以来40年近く教鞭をとり、最後の13年間はカルヴィン神学校の校長を務めた人物です。特に組織神学の分野では、改革派教会の代表的な教科書の一つとしてベルコフの著作は有名です。ただ、1957年に亡くなっていますので、死後半世紀以上も経っていることになります。そう言う意味では既に過去の人かもしれませんが、その組織神学の教科書は、宗教改革以来の改革派神学を概観する上で今もなお基本的な書物ということができると思います。

 さて、学問としての神学を研究するには、大きな前提があります。それは当然のことですが、神がいるという前提がなければ成り立ちません。けれども、神がいるという前提に立ったとしても、神についての知識をどこから得てくるのか、というもう一つの前提がなければ神学は成り立ちません。もちろん、その前に人間が神について何かを知りうるという前提がなければ、神学という学問をする意味がありません。

 その場合、神についての知識を得る源泉として、神がご自分をお示しになった「啓示」に基礎を置くのがキリスト教の神学の特徴です。そして、啓示の中でも、特に人間の救いと万物の完成についての啓示である「特別啓示」によって示された神についての知識を研究するのが神学という学問です。その神についての知識全体を体系的に表したものを「組織神学」と呼んでいます。

 ところで、その「特別啓示」というものを研究するには、いったいどこに行ったら「特別啓示」を手に入れることができるのでしょう。神は人類の堕落以来、色々な時に色々な方法でこの特別啓示をお示しになって来られましたが、それらのうち、後世に残すべき必要かつ十分なものを文書に保存することをよしとされました。これが聖書であり、宗教改革時代以来、聖書と神の言葉とはほとんど同じものと考えられてきました。つまり、神学の基礎となる神の言葉は、他のどんな場所にでもなく、ただ聖書の中にだけあると信じられてきました。プロテスタント教会が「聖書のみ」をスローガンにしてきたのには、こうした背景があるからです。

 その場合、聖書が権威ある神の言葉である根拠は、神の霊感によって記された書物であるからというものでした。その根拠としてあげられる聖書自身の証言は、有名なテモテへの手紙二の3章16節に記された言葉です。

 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」

 さて、ここで「神の霊の導きの下に書かれ」とか「霊感されて」などと言われている言葉の意味はどういうことなのでしょうか。それが、きょうご質問の中に出てきた「言語霊感」とか「十全霊感」という言葉と関係しています。

 霊感をめぐる議論には、「どういう仕方で」という霊感の性質をめぐる議論と、「どこまで霊感されているのか」という霊感の範囲をめぐる議論があります。

 どういう仕方で、ということに関して言えば、たとえば、霊感という言葉を素朴に考えると、何か神の霊に感じて恍惚状態になって、自分の意志とは関係なくものを言ったり書いたりする、というイメージがあるかもしれません。あるいは「インスピレーション」という言葉からイメージされるように、大きなヒントやアイディアを与えられて、後は人間の著者がそれを書き記す、という霊感の考え方もあります。
 しかし、聖書の究極の著者である神と、聖書の各書物を実際に書き著した人間の著者との関係は、聖書を注意深く読むならば、決して人間は筆記用具にすぎないのでもなければ、アイディアだけをもらっているというのでもありません。ルカによる福音書の冒頭部分にある通り、人間の著者の活動、人格、それらすべてを器官としてダイナミックに用いながら聖書は記されているのです。霊感とはそいう言う性質のものです。

 また、霊感が書かれた文書のどういう範囲に及ぶのか、という霊感の範囲についていえば、聖書全体ではなく聖書の一部だけに限定したり、聖書の主要な教えだけに限定したり、あるいは歴史学や科学と矛盾しない部分にだけ限定したりする、部分霊感説というものがあります。それに対して、霊感の結果生まれた書物である聖書全体に霊感が及んでいると考えるのが「十全霊感」説です。
 このことは聖書の権威ということと関係してきます。もし、部分的にしか聖書が霊感されていないのだとすれば、まずは聖書から霊感された部分、つまり神の言葉として権威ある部分を取り出したうえで、神学を建て上げなければならないということになってしまいます。言い換えれば、聖書のどの言葉、どの思想が霊感されているかという選択が、その人の神学の範囲を決定してしまうということです。

 「言語霊感」というのも「十全霊感」とほとんど同じ内容です。霊感の結果、文書として残された聖書の言語も霊感されているという考えです。ただ、「言語霊感」という場合に、聖書の記者を筆記用具のように用いて逐語的に霊感していったと誤解されるために、この「言語霊感」という用語は十分注意をはらわなければなりません。

 以上のことに加えて、20世紀以降の聖書論、霊感論には、新たな問いが突きつけられてきました。その問いが発せられるきっかけは、歴史と科学と聖書の記述をどう捉えるか、ということがその根底にあります。
 時間がありませんので、詳しくは取り上げませんが、そもそも聖書は神の言葉そのものであるのか、それとも神の啓示行為の証言にすぎないのか、という問いが一方ではあります。そして、それと関連して、霊感の結果として聖書が無謬であるという場合、その場合の「無謬」とは何をさすのか、という問題が他方にはあります。こうした聖書をめぐる議論は、神学という学問を建て上げていくうえで大前提となる部分ですから、今なお激しい議論が続いているということです。

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