聖書を開こう 2010年2月11日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 初めは小さいけれども(ルカ13:18-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 大きなもの、強いもの、華々しいものに目が引かれるというのは、人間の常かもしれません。どうしても目立つものに心が惹かれてしまいます。
 では、イエス・キリストの活動は、大きなもの、強いもの、華々しいものということができるのでしょうか。したがって、また人々の心を魅了したということができるのでしょうか。
 この評価はなかなか簡単ではないように思います。
 確かに、カファルナウムで行われたイエスの教えと御業のうわさは、あっというまにあたり一帯に広まりました(ルカ4:37)。そのうわさを聞きつけた人々が、ユダヤ全土とエルサレム、果てはティルスやシドンの海岸地方からもやってきました(ルカ6:17)。
 しかし、その一方で、イエス・キリストの御業を過小評価しようとする人たちもいました。イエスの行う業は悪霊の頭によっているのだという評価です。もちろん、それはイエス・キリストの働きが目立って大きくなってきたからこそ出てくる反対論であるかもしれません。

 では、イエス・キリストご自身は、ご自分が推し進めている神の国をどのような意識でご覧になっていたのでしょうか。
 きょう取り上げようとしている個所は、イエス・キリストがそのことをたとえ話によってお話になっています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 13章18節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
 「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 きょうの個所は二つのたとえ話をもって神の国について教えている個所です。イエス・キリストが神の国についてお語りになるのは、もちろん、この時が初めてではありません。そもそもイエス・キリストはご自分の使命についてこうおっしゃっていました。
 「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(4:43)

 敵対する者たちが、イエス・キリストの活動は悪霊の頭によるものだ、と非難した時も、イエス・キリストははっきりとこうお答えになっています。
 「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)

 わたしたちが今まで何週間かにわたってずっと目を通してきたルカによる福音書12章から13章にかけては、神の国を求めることと、やがて終末のときに完成する神の国への備えについての教えでした。イエス・キリストは「ただ、神の国を求めなさい」と弟子たちに教え、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と弟子たちを励ましました(ルカ12:31-32)。そして、目を覚まして、時を見分け、差し迫る神の裁きを前に真剣に悔い改めを表すことをお求めになりました(ルカ12:35-13:9)。
 しかし、それにもかかわらず、民衆たち、特に民の指導者たちはイエス・キリストの働きの中に神の国の到来の兆しを見ることができませんでした。先週学んだ通り、彼らは安息日に行われた奇跡の中に、神の国がもたらすサタンの支配からの解放を見てとることができなかったのでした。

 きょうの個所はそのような頑なな人々の態度を受けての教えです。

 イエス・キリストは神の国を「からし種」と「パン種」に似ているとおっしゃいました。どちらも小さいという点では共通しています。もちろん、「からし種」が後にどうなるかを知っていればこそ、からし種に目を留める人もいるでしょう。「パン種」の役割を知っていればこそ、どんなに「パン種」が小さくても、それを軽視する人はいません。けれども、もし後でどうなるかを知らなければ、ただのゴミとしか思えないほどの小さな存在にすぎません。
 イエス・キリストはあえて、このような、一見価値のなさそうな小さなゴミの様なからし種やパン種に神の国をたとえられたのです。

 それは依然として目を覚まさない、依然として真剣な悔い改めを現さない人たちに対して、神の国がどのようなものであるのか教えるためのたとえであったと言えるかもしれません。

 からし種やパン種のたとえは、決して神の国の小ささを教えるためのたとえではありません。そうではなく、人々からは小さなものと思われるものが、実は大きな変化を遂げる不思議な力ある存在であることを教えるためのたとえです。

 そもそも大国の支配を大きな木で例えることは、旧約聖書の中に見られることでした。たとえば、エゼキエル書の31章2節以下にはエジプトの王の支配は、糸杉やレバノン杉に例えられています。その大枝には鳥が巣を作り、木陰には多くの国民が住んでいるといわれます。
 また、バビロンの王ネブカドネツァルは夢の中で大きな木の夢を見ましたが、それは自分自身の王国にかかわる夢でした。
 どちらの場合も、その木は最初から大きな木でした。なるべくして大きくなった木とでも言ったらよいでしょう。
 しかし、イエス・キリストは神の国をあえて糸杉やレバノン杉に例えることをなさらないのです。いえ、イエス・キリストに敵対する人々の期待は、レバノン杉の様な立派な大木が、神の国の支配に例えられることだったに違いありません。そのような期待を抱いていたからこそ、イエス・キリストとその弟子たちが宣べ伝えていた神の国に目を留めることも、その到来を前に悔い改めの姿勢を真摯に示すこともなかったのでしょう。

 パン種のたとえもまた、初めは小さいが、やがてはパン全体に大きな影響を与えるという点で、からし種のたとえに似たところがあります。そして、共通しているのはその点ばかりではありません。たとえの意外さという点でも共通したものがあります。

 パン種は、昔、イスラエルの人たちがモーセに導かれてエジプトを脱出するときに、ことごとく取り除くようにと命ぜられたものでした(出エジプト12:15)。そして、このことを記念してイスラエルでは酵母を取り除く祭り、除酵祭が毎年行われるようになりました。なぜ、パン種が取り除かれるのか、その理由は明らかに記されてはいませんが、その後パン種は肯定的な意味よりも、否定的な意味で理解されることの方が強かったようです。
 たとえば、パウロはコリントの信徒への手紙一の5章6節以下では、パン種は全体に悪い影響を及ぼす象徴として用いられています。

 そうであれば、イエス・キリストがこのネガティブなイメージのあるパン種をあえて肯定的な意味で用いた意義は見逃すことができません。

 始まりの小ささにうろたえ、人々の描く否定的なイメージに左右されてはなりません。この小さな始まりにこそ、大きな神の国の始まりがあるのです。
 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)と励ましてくださったイエス・キリストの御言葉に信頼して、神の国の完成を期待いたしましょう。

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