BOX190 2010年7月14日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: マタイ5章44節と赦すことについて 茨城県 ハンドルネーム・チャボさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は茨城県にお住まいのハンドルネーム・チャボさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも放送を楽しみにして聞いています。また、放送を聞いていろいろと考えさせられています。
 ところで、4月28日放送のtadaさんの質問のことでわからないところがあるのですが教えてください。先生のご指摘のとおりマタイ18章21〜35節の箇所とtadaさんの質問では前提が違っていることは理解できます。
 ところで、マタイ5章44節には『自分の敵を愛しなさい』とあります。この御言葉はtadaさんの質問の内容の事例をどういうふうにしなさいと言っているのでしょうか。また、この『愛しなさい』という言葉の中には『赦しなさい』という意味も含まれているように思うのですがいかがでしょうか。よろしくお願いします。」

 チャボさん、お便りありがとうございます。番組を丁寧に聴いてくださって嬉しく思いました。特に今回のご質問は、同じテーマに関して別の聖書の御言葉から問題を考え直してみる機会をわたしに与えてくれたように思います。とかく聖書の切り売り的な、平面的な聖書の読み方に陥りがちなわたしたちですが、たくさんのリスナーの方たちに助けられて、より深く聖書の教えを考える機会となったことを嬉しく思います。

 さて、ネットで番組を聞いていらっしゃる方には、過去の原稿を直接読んでいただくことができるのですが、そうでない方のために、簡単にご質問のいきさつをお話ししておきたいと思います。

 4月28日の放送に寄せられたご質問は、殺人鬼を赦せるかどうか、というものでした。しかも、その殺人犯は犯行を重ねることを悪びる様子が少しもなく、返って、殺される人が悪いのだと言って開き直っているというようなケースです。
 質問者はマタイによる福音書18章22節でイエス・キリストが「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃったのを引き合いに出して、このようなケースにおいて人はキリストの言葉通りにその殺人鬼を赦すことができるのか、というご質問でした。

 それに対するわたしの答えは、質問者のケースとマタイ18章のケースは前提が違うということでした。マタイ福音書でイエス・キリストがおっしゃっているのは、悔い改めを言い表す兄弟を、たとえそれが7を70倍するほど罪を繰り返す人であっても、その言葉を信じて赦しなさいという教えです。つまり、悔い改めが前提となっているということです。そういう意味で、マタイ福音書18章22節で言われている言葉をこのケースに適用することはできないということでした。
 しかし、その時の番組の中では、悔い改めない相手に対する場合についても二、三のことをお答えしました。それは「ゆるす」とはどういうことなのか、ということにかかわる話でした。

 きょうのご質問はそうしたことを受けて、この同じ事例をマタイ福音書の5章44節に記される『自分の敵を愛しなさい』というイエス・キリストの教えから考えると、どのような行動が求められるのか、ということを問いかけているわけです。その場合、「敵を愛する」ということの中に「敵を赦す」ということも含まれているのではないか、というのがチャボさんのご質問です。

 さて、前回の放送で語り足りなかったことをもう一つだけ言わせていただくと、マタイ福音18章22節が前提としているのは教会の「兄弟」の話です。つまり、神の教えを受け入れ、それに従って生きることを決心し約束している人が前提です。そもそも聖書の神の教えを受け入れていない人に、罪を罪として認めることを期待することはできないからです。もちろん、殺人のようにそれが悪いことだと万人が認める行為は別ですが、たとえば、聖書では神を愛さないことは罪ですが、聖書の神を信じない人にとっては、それを罪と思うこと自体ができないことです。そういう人を相手に、さらに別の兄弟を連れて行って悔い改めるように勧めるようにと、イエス・キリストはここで期待しているわけではありません。
 つまり、教会の中にいる人たちに対する期待と、教会の外にいる人たちに対する期待は必ずしも同じではないということです。
 この区別はパウロもしていて、コリントの信徒への手紙一の5章9節以下のところでこのように書いています。

 「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もしそうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。」

 そこで、ご質問のマタイによる福音書5章44節にある「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えと「赦すこと」との関係について考えてみることにします。

 ここでいう「敵」というのは、その直前で引用されているユダヤ人の考えを受けての用語です。つまり、当時のユダヤ人たちは「隣人を愛し、敵を憎め」というのが当然と考えられていました。その場合、「隣人」というのは具体的には「兄弟」「同朋」のことです。つまり、同朋のユダヤ人は隣人として愛すべきであるのに対し、異邦人は隣人ではないので憎んでもよい、ということです。もちろん、その理由は異邦人が真の神を知らない罪人であるからというものです。
 しかし、それに対して、イエス・キリストは愛の対象である「隣人」には異邦人も含まれると教えているのです。その異邦人が自分たちを迫害する文字通りの「敵」であっても愛の対象だというのです。

 さて、この「愛すること」の中には「赦すこと」も含まれているのでしょうか。
 やはり、この前に言ったことが、ここでも繰り返される必要を感じます。つまり、「赦す」とはどういうことを言っているのか、ということです。
 「ゆるす」ということが、繰り返される殺人行為を許可したり、是認したりする、という意味であるならば、そういう意味での「ゆるし」は、この「隣人愛」の中には含まれていないのは当然です。なぜなら殺人を是認したり許可したりすれば、そのこと自体が隣人愛の教えと矛盾してしまうからです。

 この場合の「ゆるす」ということが、自分で報復をしないという意味だとすれば、その意味での「ゆるし」はこの「隣人愛」の中に含まれています。なぜなら、パウロはローマの信徒への手紙12章19節でこう述べているからです。

 「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」

 その場合の「神の怒りに任せる」という意味は、次の節で言われているとおり、何もしないで放置すると言うことではありません。むしろ「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」という積極的なかかわりです。

 さらに、この場合の「ゆるす」ということが、その人が永遠の滅びにいたるのではなく、永遠の救いに至ることを心から願うことであるという意味だとすれば、当然そのような「ゆるし」は「隣人愛」の中に含まれています。なぜなら、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)からです。

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