聖書を開こう 2009年12月17日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神の前に豊かに生きる(ルカ12:13-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 豊かに生きるということに関して、その答えを出すことはなかなか難しいような気がします。わたし自身が生まれ育ったのは戦争が終わってから12年が過ぎた時代でした。この日本が戦地となって悲惨な体験をしたということが、ほとんど実感をもって感じることができない日々を今に至るまで過ごして来ました。
 それは何よりも戦争を体験したわたしたちの父母、祖父母の世代の人たちの払った努力や犠牲があったからだと思います。その人たちの願いは、あの悲惨な戦争から日本が少しでも立ち直って、次の世代の人たちが豊かで幸せな時代を生きて欲しいということに尽きるはずです。そのことについてはどんなに感謝をしてもしきれないほどです。
 そのお陰でいろいろな幸福を手に入れることが出来た反面、しかし、それでも未解決な問題は山積です。
 広がる格差の問題、増えつづける自殺の問題と抑圧された心、ワーキングプアなどなど、ほんとうの豊かさを感じることが出来ない現実が目の前にあります。ほんとうの豊かさのために何をなすべきなのか、そのことを考えるのは、正にわたしたちの世代の責任であるように思います。

 だからと言って、それを聖書の教えと単純に結び付けて論じることはわたしの本意ではありません。けれども、イエス・キリストの言葉にまったく耳を貸さないというということを敢えて勧める気持ちはありません。
 むしろ、イエス・キリストの言葉の中に隠されている大切なヒントを一人一人が読み取ってほしいと一人のクリスチャンとしてわたしは願っています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 12章13節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 先週まで学んできた迫害に立ち向かう姿勢についてのイエス・キリストの一連の教えから、きょうは何の関係もない話題へと話が変わってしまいます。まったく唐突という印象をぬぐいきれません。
 福音書記者のルカにしてみれば、もう少し関連したテーマをもってくることも自由に出来たはずです。しかし、この唐突とも思える予想外の中断が、かえって事柄の真実を語っているように思えます。

 信仰の存続にかかわるような大切な話をイエス・キリストがなさっているにも関わらず、人はそれとはまったく違う自分の関心でキリストのもとへとやってくるということです。その態度は決して他人事ではありません。それはみ言葉を聞くわたしたち自身の態度そのものといっても良いかもしれません。

 イエスのもとにやって来た男の願いは、遺産の公平な分配のことでした。直前までのイエス・キリストの教えからは何とも的はずれな願いです。イエス・キリストはその願いを受けて、一つのたとえ話でお答えになります。

 そのたとえ話は「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」ということを教えるものでした。

 ある金持ちの男の畑が豊作だったというのです。畑が豊作だったのは男の努力の賜物とばかりは限りません。地の利と天候がうまい具合に作用して豊作をもたらしたのでしょう。正に天の恵みです。

 では、豊作を前にしてこの男は何をしたのでしょう。穀物を蓄えるために、古い倉を壊して新しい、もっと大きな倉を建てます。わたしの穀物、わたしの財産なのだから、そうするのが当然という思いなのでしょう。
 そこには神への感謝も神から与えられた恵みについての思いもありません。
 極めつけに、男は自分の魂に言います。

 「さあ(魂よ)、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」

 自分の命さえも、自分の所有物であるかのように、自分の財産でどうにでも生き長らえさせることが出来ると思い違いをし始めているのです。

 この男が愚かだと言われるのは、穀物を蓄えたことでもなければ、その穀物でささやかな娯楽を楽しもうとしたことでもありません。そうではなく、その穀物を得たことが人生のよりどころとなり、命さえも自分の手の内に入れたかのように思い違いをしている点にあるのです。それは神を畏れ敬う心を無くした生き方そのものです。

 聖書が言う愚かさとは、神がいなくても人は生きることが出来ると考えることです。

 イエス・キリストはこのたとえ話を結ぶに当って、こうおっしゃいます。

 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 では神の前に豊かに生きるとは、どういうことでしょうか。
 そもそも、畑が豊作だったことを良いことに、この男が穀物の豊かさに安心を見出したのは、日々注がれている神の恵みに少しも気がついていなかったからです。

 来週取り上げようとしている箇所で、イエス・キリストは、鳥よりも野の花よりも価値がある人間の必要を天の父なる神は良くご存知であるとおっしゃっています。
 いえ、先週学んだ個所でも、天の父なる神は五羽二アサリオンでまとめ売りされている雀の一羽にも、何本あるかわからない髪の毛一本にも心を注いで下さるお方である、とイエス・キリストはとおっしゃっていました。その神をこそおそれて生きよ、とお教えになったばかりなのです。

 神の恵みを知っている者は、神の恵みの豊かさに生きている者です。神の恵みに自分が生かされていることを知って、寛大になれる人です。神から与えられた恵みを分かち合うことの出来る心の広い人です。神の恵みを知って恐れや思い煩いから解放されてこそ、神の前に豊かな生き方が出来るのです。

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