聖書を開こう 2009年8月27日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 狼の群れに送られた小羊(ルカ10:1-4)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本のクリスチャン人口は1%に満たない数だと言われています。1%というと取るに足りない数のように感じられます。しかし、もし百人に一人罹る伝染病が流行っていると聞いたら、同じ1%と言ってもその病気の勢いを無視できるとは思わないはずです。
 また、自分の周りの99人がキリスト教に無関心であるか、拒絶していると思うと、自分がとても無力で小さな存在のように感じます。しかし、自分の周りの99人にキリスト教を伝える余地がまだ残されていると考えれば、神から大きな働きが委ねられているように感じるものです。

 ところで、きょう取り上げる箇所でイエス・キリストは弟子たちを遣わして神の国の教えを宣べ伝えさせますが、それは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とおっしゃいました。それは派遣した弟子たちの気持ちを怯えさせ、萎えさせるためだったのでしょうか。いったいこの言葉をどう受け止めたらよいのでしょう。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 10章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。

 きょう取り上げたこの箇所は、神の国の宣教に関わる話です。七十二人の弟子たちを遣わすにあたって述べられた、イエス・キリストの教えが記されています。それは、そのまま伝道を委ねられたクリスチャン一人一人に対する言葉として、受け止めることができるでしょう。

 ただ、わたしたちへの適用を考えるに先立って、ルカ福音書の文脈の中で三つのことを簡単に指摘しておきたいと思います。

 先ず大きな流れとして、この七十二人が派遣される前に、十二人の弟子たちが神の国の宣教のために遣わされたということが、既にルカ福音書の9章に記されていました。そして、十二人の弟子が遣わされる前に、イエス・キリストご自身の手によってガリラヤ地方の町々村々で神の国の教えが伝えられて来ました(4:43、8:1)。つまり、神の国の福音を広める必要性と緊急性がまずます大きくなってきているという時代の流れの中で今日の箇所は読まれなければなりません。それが第一点です。

 そして宣教の必要性と緊急性が大きくなったのは、イエス・キリストがエルサレムへ向かって旅を始められたということと無関係ではありません。9章51節に言われるとおり、イエス・キリストは、天に上げられる時期が近づいたので、エルサレムに向かう決意を固められました。エルサレムへ向かう決意とは、それまで弟子たちに予告してきた十字架の苦しみと復活を目指した歩みへの決意です。この時代背景に関しては今の時代にそのまま当てはめることはできません。そのことが第二点です。

 そして、第三点として心に留めておきたい流れは、前回取り上げた箇所との対比です。前回はイエスに従う決意や覚悟について、イエス・キリストはお話してくださいました。そのことを踏まえて七十二人の弟子たちは派遣されていくのです。直前でイエス・キリストがおっしゃったことを心に留めてきょうの箇所を読まなければなりません。

 さて、七十二人の弟子たちを派遣するに当って、イエス・キリストは収穫の多さを指摘されました。この場合の収穫はもちろん比ゆ的な意味です。神の国の福音を信じる者たちを呼び起こし、集めるときといったらよいでしょう。
 収穫は時が来なければ意味がありません。今まさに刈り入れのときだというのです。収穫の時期を先延ばしにすることはできません。しかも、身に余るほどの収穫が約束されているのですから、手をこまねいていてはいられません。
 七十二人の弟子たちを派遣したように、イエス・キリストは収穫のために今もなおわたしたちを派遣して下さっているのです。今が収穫の時であるという時代感覚をもってイエス・キリストの呼びかけに答えることが大切です。

 イエス・キリストは収穫の多さに対して、働き手の少なさを指摘なさいました。しかし、自分たちで何とかせよとはおっしゃいません。「収穫の主に願いなさい」とおっしゃいます。派遣されて働くわたしたちは、自分で苦労して働いているようでありながら、しかし、「収穫の主」がいらっしゃるのです。力の足りなさを落胆する前に、収穫の主を信頼して、収穫の主に願うことが大切です。
 神の国の福音を伝えることは、わたしたちの働きのようであって、わたしたちの働きではありません。収穫の主である神がわたしたちを遣わし、神が必要な働き手を供えてくださるのです。

 いえ、それよりも前に、伝道が思うように捗らないのを見て、収穫が多いとおっしゃるイエス・キリストの言葉を疑ってしまうかもしれません。

 イエス・キリストはこの派遣を「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とおっしゃいます。大きな収穫の得を約束してくださっている一方で、その収穫が何の苦労も伴わない簡単なものだとはおっしゃらないのです。それどころか、狼の群れの中に小羊を送り込むとようなものだとおっしゃるのです。狼の群れの中に小羊を送り込めば、絶望的としか思えません。

 しかし、だからこそ神の守りが必要であることを、片時も忘れてはならないのです。もしこれが逆だったらどうでしょう。わたしたちが狼で、遣わされる先が小羊の群れだとしたら恐ろしいことです。収穫の主人を忘れ、自分のためにむさぼるだけです。
 小羊のようなわたしたちだからこそ、神の助けを求めながら、大きな収穫を信じて働くことができるのです。

 狼の群れの中に送り込まれた小羊のような存在だからこそ、財布や袋や履物を持っていったところで、安心などできないのです。それらがあれば万全だと思うことが、そもそも大きな思い違いなのです。神を頼りとしてだけ、伝道の業は進み、大きな実りを刈り取ることができるのです。

 旧約聖書の中では神の民であるイスラエルはよく羊に例えられました。それは、弱い存在であると同時に、羊飼いである神に守られた存在であるということです。
 宣教の業は、荒れ野に迷い出た小羊が狼の群れの餌食になるのではありません。主に守られた小羊が、主の力をいただいて狼の群れのところに行くのです。宣教には困難が伴いますが、けっして絶望的ではないのです。

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