聖書を開こう 2009年7月30日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 信仰のないよこしまな時代(ルカ9:37-45)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストは何故十字架におかかりになったのか、今でこそその理由が聖書にはっきりと記されていますから、それが神が定めたメシアの姿であることは、クリスチャンにとって疑いの余地もないことです。
 しかし、イエス・キリストの弟子たちにとっては、「イエスこそ神のメシアである」と告白することと、「十字架の上で苦しまれるメシア」の姿を思い描くことは、どうしてもしっくりと重ならないものがあったと思われます。少なくとも復活のキリストの姿を目撃し、復活のキリストと共に過ごす経験をするまでは、十字架にかけられたメシアの姿を救い主の姿として描くことなど、思いもよらなかったことでしょう。
 きょう取り上げる箇所にも、困惑している弟子たちの姿が描かれます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 9章37節〜45節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。

 きょうの箇所は、前回の箇所と比べると落差を感じる内容です。
 山の上でイエス・キリストと過ごした三人の弟子たちたちが目撃したものは、文字通り光り輝くイエス・キリストの姿でした。その光景の素晴らしさに弟子のペトロは思わず「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と口走ったほどです。できることなら、ずっとこのままの状態でいたかったのでしょう。
 その数日前、イエス・キリストは弟子たちにご自分の苦難を予告し、弟子たちもまた自分の十字架を背負ってイエスのあとに従うようにとお命じになったばかりです。しかし、山の上での出来事は、そんな重苦しいイエスの言葉をすっかり忘れさせてしまうような出来事でした。天にも昇る思いというのは、こういうものを言うのだろうと思うくらい、三人の弟子たちを興奮させる事件です。
 ところが、きょうの箇所で、山から降ってきた三人の弟子たちがすぐに目撃したものは、無力な人間の世界です。留守を待つほかの弟子たちが悪霊にとりつかれた子供を癒すことができずに困り果てている姿です。
 その弟子たちは、幾日か前にはイエス・キリストから悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授かって、伝道旅行を立派に果たしてきた弟子たちです(ルカ9:1-6)。その彼らが、手も足も出ないほど困り果てているのです。山の上で目撃した栄光に包まれたイエスの姿とはあまりにも対照的です。
 しかも、イエス・キリストはそうした出来事をご覧になって、こうおっしゃったのです。

 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」

 この言葉は悪霊を追い出すことができなかった弟子たちだけに対する言葉ではないでしょう。イエス・キリストが問題にしているのは、「信仰のない、よこしまな一部の弟子」ではなく、「信仰のない、よこしまな時代全体」なのです。
 病や貧困や暴力や不正がはびこる世界は、けっして望ましいものではありませんし、そういう現実に直面すればイエス・キリストのように「何と信仰のない、よこしまな時代なのか」とわたしたちも嘆くこともするでしょう。
 しかし、誰かが病や貧困や暴力や不正を解決できずに右往左往しているのを見て、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」とは口にしたりしないでしょう。
 それは一方にはこの現実に対してどうしようもないという諦めの気持ちがあり、他方では自分もまた無力な人間の一人なのだという思いがあるからです。

 しかし、イエス・キリストはこの時代を「信仰のない、よこしまな時代」と呼び、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」とはっきりとおっしゃっています。

 それはこの「信仰のない、よこしまな時代」に呆れて、この時代を見放すためにそう言い放ったのではありません。むしろ、この「信仰のない、よこしまな時代」を救うためにこそイエス・キリストはいらっしゃったのです。それは病に苦しむ一人の人を個別に救うというばかりではなく、十字架の苦難と死を通して実現する救いです。

 ですから、人々が子供が癒されたことで感銘を受け、神の偉大さをたたえている正にその時に、弟子たちにご自分の苦難を再び予告しているのです。

 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」

 ルカによる福音書の9章を振り返ってみると、イエス・キリストはいったい何者なのか、ということが繰り返し問われています。ヘロデも群衆も自分の思いのままにイエス・キリストをあしらいました。弟子たちはペトロに代表されるように「神からのメシアだ」と告白しました。
 しかし、イエス・キリストはその直後、ご自分の苦難と復活を予告されていたのです。その後、山の上で栄光に輝く姿をお現しになりますが、ここで再びご自分の引き受けようとしている苦難を予告されるのです。

 イエス・キリストこそ「信仰のない、よこしまな時代」を憐み、ご自分の死を通してこの時代を救ってくださるお方です。

 残念なことに、弟子たちはイエスのおっしゃることの意味を、その時は悟ることができませんでした。また、怖くてその言葉の意味を尋ねることもできませんでした。まさに「信仰のない、よこしまな時代」に生きる弟子たちであり、わたしたちです。しかし、イエス・キリストはそのわたしたちの弱さを引き受け、ご自分の死を通して救いを実現してくださるのです。

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