聖書を開こう 2009年5月7日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 良い地に落ちた種のように(ルカ8:4-15)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストはたくさんのたとえ話で人々に神の国の教えを語られました。たとえ話というのは抽象的な話ではなくて、日常に題材をとった具体的でわかりやすい話です。しかし、分かりやすいというのは、教えを聞こうとする人にとってであって、聞く耳を持たない人にとっては却ってわかりにくいものです。
 きょう取り上げる箇所には、イエス・キリストが語ってくださったたとえ話とそのたとえ話の意味が解き明かされています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 8章4節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
 イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」
 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

 まず、初めにイエス・キリストがたとえでお語りになる理由について簡単にみておきたいと思います。イエス・キリストはこうおっしゃいました。

 あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」

 この言葉はちょっと不思議な気がします。本来ならばたとえ話で語るのは、わかりにくい話を分かりやすくするためです。イエス・キリストのお語りになったたとえ話も、大抵はこの部類に入るはずです。
 しかし、心の持ち方によっては却って意味が分かりにくくなってしまうこともあります。深入りした読み込みは、たとえの意味を複雑にしてしまい、理解できなくしてしまいます。あるいは意味が理解できても、自分に当てはめて読むことを嫌って、心を閉ざしてしまうこともあります。ですから、たとえ話は心を開く人にとっては一層分かりやすく、しかし、心を閉ざす人にはますます分かりにくくなる話し方なのです。つまり、たとえ話は聞く人を振り分けるために語られるのです。

 さて、イエス・キリストがお語りになった「種をまく人のたとえ」は、言うまでもなく当時の農夫の種まきの仕方に題材を得ています。もっと効率よく種を蒔かなかった農夫が悪いという非難はここでは当てはまりません。当時はそのように種をまき、種が落ちた場所によって実りに差が出たのです。そのことはこのたとえ話を聞いた当時の誰もが知っていたことです。

 では、このたとえ話の意味は一体なんだったのでしょう。イエス・キリストご自身がその意味を解き明かしてくださいます。

 まず蒔かれた種は神の言葉であると解説されます。種は四種類の地面に落ちましたが、それぞれは御言葉を聞く人の聞き方を表しています。種が蒔かれる地面には、自分が道端なのか、石地なのか責任はありません。しかし、御言葉を聞く人間には、聞き方に責任が伴います。その点は種が蒔かれる地面と御言葉を聴く人間の心と違う点です。そういう意味で、このたとえ話は自分の御言葉の聞き方を自分に与えられた心という地面の違いのせいにすることはできません。

 イエス・キリストはおっしゃいます。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」。

 ここでキリストがおっしゃりたいことは、聞く気が満々なのに意地悪な悪魔が御言葉を心から奪っていってしまう、というのではありません。そうなのではありません。声は確かに耳に届き、文字は目に届いていても、それ以上に関心を抱こうとしない人のことを言っているのです。悪魔に御言葉を奪われるままにしているのは結局本人なのです。

 二番目の地面については、こうおっしゃいます。

 「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。」

 今度は、芽も出るくらいですから、御言葉にまったく関心がないというのではありません。むしろ喜んで御言葉を受け入れるのですから、御言葉の与える恵みも十分にわかっている人です。しかし、根っこがないので養分を取り入れることができず、成長しつづけることができないのです。
 イエス・キリストは具体的にどのような根からどのような栄養を吸収すべきかはおっしゃいませんが、ただ御言葉を聴いて喜んでそれを受け入れていると言うだけではダメなのです。

 そして、三番目の地面については「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」と解説されます。

 今度は芽も出し、根も張ってはいるのですが、外からの様々な妨害によって実を結ぶまでに至らない人たちです。その外からの妨害は、文字通り外からの誘惑もありますが、結局は心に働きかけて、クリスチャンとしての成長を閉ざしてしまうのです。芽を出し、根を張ったからといってまだ安心できないのです。

 最後にキリストはおっしゃいます。
 「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

 良い土地が良い実りを結ぶのは、その場所が良かったからに他なりません。別に「よく守った」からとか「忍耐して」ということもないでしょう。しかし、人間が御言葉を聞き、心で受け止め、クリスチャンとして実りを結ぶには、よく守り、忍耐する必要があるのです。そうできる人こそ良い土地なのです。イエス・キリストは御言葉を聴きに集まってきた人たちに、そのことを願っているのです。

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