聖書を開こう 2009年3月19日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: しっかりした土台の上に(ルカ6:46-49)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 建物を建てるときには、土台が大切だと言うことは誰もが聞いてよく知っていることです。しかし、実際に自分が住んでいる建物の土台がどうなっているかということを気にする人はそんなにいないように思います。
 気にしなくてもいいのは、設計者が計算どおりに必要な土台を設計し、建築業者が図面どおりに作っていると信用しているからです。自分ひとりで設計から建築までするというのでない限り、大抵は専門家任せで問題はありません。
 ところが、人生の土台となるとそうはいきません。何を自分の人生の土台とするかは、自分で決断するより他はないのです。しかも、その土台が間違っていれば、築き上げる人生そのものに大きな影響が出てきてしまうのです。建物以上に人生の土台は大切なものであるはずなのに、建物の土台のこと以上に、人生の土台について深く考えないのは、あまりにも危うい生き方のように感じられます。

 きょう取り上げる箇所には、イエス・キリストの教えの上に立って生きることの大切さが、土台と建物の譬えで語られています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 6章46節〜49節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

 きょうの聖書の箇所は、6章17節から始まった平野の説教の結びの部分です。イエス・キリストはご自分のもとに集まった民衆に一連の教えを説かれました。その教えに立って生きる者と聞くだけで行なわない者との行く末が、どんなに違うものであるのかを譬えをもって示されました。それがきょう取り上げた土台と建物の譬えです。

 イエス・キリストが平野の説教を語り聞かせた聴衆は、イエスの教え聞こうとして集まった人々であり、イエスキリストに癒していただきたいと思ってやって来た人々でした(ルカ6:17-18)。そういう意味では、最初からイエス・キリストに無関心な人たちであったと言うのではありません。そうではなくイエス・キリストと積極的に係わりを持ちたい人たちだったのです。
 この人たちは人生の土台にキリストを必要としていることが最初から分かっている人々です。もちろん、理解の深さは人それぞれだったかもしれませんが、少なくともキリストを必要と感じていた人々です。イエス・キリストに向かって「主よ、主よ」と呼び求めていた人たちです。
 その人々に語りかけた平野の説教の結びで、イエス・キリストはこうおっしゃっいました。

 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。」

 もちろん、民衆のほとんどは、平野の説教をたった今耳にしたばかりですから、それを行うとも行なっていないとも言えない状態だったことでしょう。ですから、イエス・キリストがおっしゃる「なぜわたしの言うことを行わないのか」と言う言葉は、民衆の具体的なかたくなさを非難したというよりも、これからの生き方に対して注意を促したと理解するのが良いでしょう。実際、「主よ、主よ」とまじめに呼び求める人たちだからこそ、これからを注意して生きる必要があるのです。

 イエス・キリストが描いたたとえ話に登場するのは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人」と「土台なしで地面に家を建てた人」です。それぞれが表しているのは「イエスの言葉を聞き、それを行う人」と「聞いても行わない者」です。そして、それぞれの家の結末は洪水がおそってもびくともしない家か、あっと言う間に壊れてしまう家か、その違いとなって表れます。

 興味深いことに、このたとえ話が示しているのは、キリストを信じた人と、キリストを信じない人の違いではないのです。キリストを土台とした生き方と、キリストを土台としない生き方の違いでもないのです。「主よ、主よ」とキリストを呼び求め、主の言葉を喜んで聞いているという点では共通した土台を持った人たちなのです。ただ違うのはイエスの教えを行うか行なわないかの違いです。
 ところが、この譬えの中では聞くだけで行なわない人を「土台なしで地面に家を建てた人」と呼んでいるのです。
 普通だったら「キリストという土台はあるけれども、建て方の悪い人」と言いたいところです。しかし残念ながらそうは言われていないのです。聞くだけで行なわない人は「土台のない人」なのです。

 キリストを信じ、キリストを呼び求めていながら「土台のない人だ」と言われるのはとても衝撃的なことです。
 なぜ、「聞くだけで行なわない人」のことを「土台なしで地面に家を建てた人」というのでしょうか。ここではキリストへの信仰よりも、行いが強調されているのでしょうか。そうではありません。
 イエス・キリストが求めていらっしゃる「行い」とはイエス・キリストが説教の中で語られた教えの実践です。
 では、イエス・キリストは平野の説教で何をお教えになられたのでしょうか。
 一言で言えば、赦しを与えてくださる神の愛に応えて生きる生き方です。個々の教えの背景には、恵みによって赦しを与えてくださる神の存在があります。この神のい救いの恵みに応えて生きることこそ、平野の説教が説いていることなのです。
 ですから、救われるためにイエスの教えを守るべきだと考える「行いによる救い」をイエスは説いているのではありません。そうではなく、イエスの言葉に根ざし、イエスの言葉を聞いて行うとは、そのイエスの言葉が教えているとおりに、神の救いの恵みに生き、神の愛に応えて生きるということに他ならないのです。
 逆に、神のことばを疑い、救いの恵みに生きようとしないならば、それは神の愛がもっとも鮮明に示されているキリストそのものを否定することですから、土台なしで家を建てるにも等しいのです。人生の苦難が襲ってきたときに、たちどころに崩壊してしまうのは当然の成り行きです。

 しかし、神の愛を信じ、救いの恵みに生きるならば、どんなに苦難が襲ってこようとも、キリストにあって示された神の愛から自分が引き離されることはありません。そう確信しているのですから、しっかりと立つことができるのです。

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